情報の氾濫に伴う価値観の多様化、そして教育システムの細分化によって物語を語ることのできなくなった若者たち。しかし物語は自己を、そして社会を知るために必須の条件。だったら、こんな時代にどうやったら物語る能力を復活させることができるのだろうか。今回はこれについて考えてみたい。

情報の断捨離

やるべきことは「情報の断捨離」と「学習項目の断捨離」だ。とにかく余分な情報を全部削ぎ落としてしまう。ただし、問題はどうやって「余分とそうでないもの」を腑分けするか?残念ながら、物語能力がない若者たちには、これはムリ。だから、こちらがこういった環境を用意する。つまり、必要と思われる情報しか、先ずは提供しないようにするのだ。

英語嫌いだけど、タイ語は好き?

これを英語と同じ語学学習で説明してみよう。僕は毎年、自分のところのゼミ生をタイに連れて行くのだけれど、彼らにはほんの少しだけタイ語を教えている。あいさつ、行き先のたずね方、食堂での注文の仕方、メニューの見方、タイ人との簡単なコミュニケーション用の表現など。単語は全部で100語程度。8月のタイ行きに合わせて4月くらいから毎週40分ほどタイ語学習の時間を用意するのだけれど、これをやると面白いことが起こる。彼らは前回述べたように英語が全くもって苦手(だから偏差値50を割る)。僕が授業で英語の話をした瞬間フリーズしてしまうほどの”英語アレルギー”。徹底的な英語嫌いなのだ。ということは同じ語学のひとつであるタイ語もダメなはずなのだが……ところが全然、そんなことはないのである。「タイ語のメニューを覚えると食べられるもののバリエーションが増えるよ!」とかいって彼らを煽り、料理を写真で見せ、それらをクイズ方式や暗唱で覚えさせ、さらに事前にみんなで国内のタイ・レストランに行ってそれらを確認するなんて作業をやると、語学についての関心は俄然アップする。

で、こんな状態で現地に向かうと、彼らには、そこがこの国内でのタイ語シミュレーションを現実に移す格好の場と映るのだ。だから嬉々として、そして「どや顔」で、色々と注文する。そうすると、 たった100語で結構、コミュニケーションをとるようになる。 気がつくと、今度は学ばなかったメニューまで自学するようになっているほど。また、タイ人にタイ語を使ってみると、相手が驚いて急に親しげに対応してくれたりする。こういったことが実に楽しいようなのだ。

「先生、タイ語は英語なんかよりぜんぜんカンタンで面白いっすよねぇ!」

こんなことをゼミ生の一人に言われたことがあったほど。

いや、違う。英語だって同じだ。じゃ、二つはどこが異なっているのか。それは英語の場合、断捨離していないから。タイ語はたった100語とチョー簡単な運用法しか覚えていない。ところが、それらは、少ないがゆえに、かなりのシチュエーションで使いこなすことができる。だから、その少ない語彙数を用いて、彼らなりに相手と情報のやりとりを行おうとするわけだ。当然、ここには「たった100語での物語」が存在する。その語りを作ってコミュニケーションすることが面白くてしかたがないのである。

断捨離教育は物語教育

一方、英語はこういうふうにはなっていない。語学は基本的な部分が確実に定着して、応用が可能になるもの。ところが、英語教育はこの逆。 断捨離せず、べらぼうな情報を未消化のまま投げつけられたのでわけがわからなくなっている。べらぼうな、まとまりのない、薄っぺらい情報だけが次々と関連なくカタログのように頭の中に放り込まれていく。しかも脈絡なく。これじゃあ”拷問”。全く使いものにならないし、なぜ学んでいるのかの理由すらわからず疎外感を感じてしまうのもあたりまえだ。そして、若者たちは英語嫌いになったのだ。ということは、彼らの英語嫌いは「英語が嫌い」なのではなく「英語を取り巻く学習環境によって嫌な目に遭ってしまい、それがトラウマになった」だけ。だから、全く語学学習として同じであるタイ語を学ぶことについては、これがないから純粋に「楽しい」のである。いいかえれば、前述したような断捨離系の学習を英語にも施していれば、こうはならなかったはずなのだ。

ここまで、英語を例にとって物語教育について展開してきたが、ここでの内容、実はすべての学習項目に該当することと考えていい。つまり、先ず情報量を少なくし、それらの情報についての運用をリアルな場で徹底させ、しっかりと定着したところで新しい学習項目を提示するというやり方。この時、「しっかりと定着」するとは、要するに「その項目について物語ることができるようになる」と言うことなのだ。項目が定着していれば自分なりにこれをカスタマイズしていろんなシチュエーションに流し込んで使うようになる。そしてそれが物語を紡ぎ出していくのだから。そしてその周辺に「自己=他者としての自分」と「社会=他者の集合体」のイメージが形成されていく。

ちなみに、こういった「物語教育」、実は100年以上も前に、わが国ではとっくに存在していた。それは寺子屋教育だ。ここで行われていたのは「読み、書き、そろばん」、それだけだ。これをクドクドとやり続ける。音読し、書き写し、そろばんをはじき続ける。これを繰り返し、さまざまなシチュエーションに流し込むことで、学習内容は身体化し、知識は生きたもの、実戦可能なもの、要するに「知恵」として機能することが可能になっていた。この時代の学習を受けた人間の多くが字が上手で文章が上手いというのは、こういった情報を限定した質的教育が施されていたからに他ならない(まあ、言い換えれば一本調子ということでもあるのだけれど)。言い換えれば、現代の教育は「知識」だけで「知恵」がない。だから物語れないのである。

物語教育を英語に適用すると~寺子屋式英語学習法

では、具体的にはどうやるか。前述の英語教育を例にとってひとつ示してみよう。つまり、英語教育はいかに断捨離=改善されるべきか。

まず、たくさんある教科書をたったひとつだけに絞る。いちばん適切なテキストは、学習のすべてが凝縮されているリーダーの教科書だ。これを徹底的にやる。具体的には何度も読み、暗記する。そして本文の文脈で登場する中でのみ限定的に文法項目を教えていく。たとえば”She has a pen.”という文章なら、これが名詞、動詞、不定冠詞から構成され、なおかつ第三文型であること、助動詞doを挟むことで疑問文と肯定文が作成できること、人称によって動詞が変化することといった一連の項目を教えるのだ。ただし、これとて一度にやったらわけがわからなくなることは必定。先ずは音読させ、その中で単語を教えというようなことをやり、次に文法の初歩を同じ文章で、そして応用をという形でゆっくりと、同じカ所を視点を変えてクドクドやっていく。この時、ただ理解させるだけでなく、その場その場でさまざまな英作文を作らせ、やりとりをさせる。そして最終的にはリーダー全文を暗記する。また音源を用いて練習する(つまりネイティブをお手本にした音読)ことで、学習内容を身体化させていく。発音すら、ここで学ぶことができるのだ。さらに、このおさらいとして相互に学習内容を説明し合うというところまでやれば、一旦身体化したものを整理して対象化し説明可能なものになるわけで、ここまで来ると学習は完璧だ。つまり「寺子屋式英語学習法」。これまでの学習法が「細分化したものを一つにまとめていく」というプロセスであったとしたら、こちらの方は「一つのものを次第に細分化させていく」というやり方だ。学習のコア=物語の運指が見えているから、確実に定着する。

で、こういった学習方法、実はリーダーの教科書にはすべて昔から網羅されている。だからそれをちゃんと、そしてクドクドやればいいだけの話。ところが学校教育では、このリーダーの教育項目を「簡単すぎる」と言うことではしょり、文法問題集とかドリルといった副教材に依存するという学習方法に切り替えてしまう。だが、それが学習のいたずらな細分化であり、学習内容のイメージを分散化させ、学習を物語に昇華できなくさせてしまうことは、ここまでの説明でもはやお解りいただけるのではなかろうか。

そして、物語教育。実は、われわれの社会の根本的なあり方にまで抵触する問題と僕は考えている。しかもヘタレ日本を作ってしまった元凶が、この「物語教育の不在」に求められるのだと。次回はこれについて考えてみたい。(続く)