自己紹介ができない!

大学で学生たちを教えていてつくづく思うことがある。それは、彼らの多くが「物語」を紡ぎ出すことができないことだ。たとえば自己紹介をしてもらうとしよう。で、紹介時間を二分間与えたとすると、だいたいこうなる。

先ず名前、次に出身、趣味、そして……もう後が続かず二分間が持たない。誰がが妙なアイデアを考えてそのネタ(たとえば自分の名前の由来とか)を切り出すなんてことになると、その説明ばっかりになる。つまり、自分についての語りが展開できないのだ。これはレポートでも同じ。ネタがコロコロ変わって一貫性がない。25メートル泳げない生徒が必死にもがいてゴールにたどり着くような感じと言ったらいいだろうか。泳ぎがメチャクチャ、つまり関連のないトピックが短いスパンで次々と繰り出される。

この原因を僕は2カ所に求めたいと思う。ただし、たどり着く原因は同じところだけれど。

情報多様化がもたらす八方美人的な情報行動

ひとつは情報ソースの多様化だ。今やインターネットの時代。至る所からいくらでも情報入手が可能というインフラが出来上がっている。だから、必要な情報、欲しい情報を好きなだけ取り込めるように思うのだけれど……しかし、これが可能なのは「必要な情報」「欲しい情報」を自覚している人間に限られる。若年世代は、自分が何が欲しいのか、どういった傾向に自分が向いているのかなんてことは、まだわからない。何かにハマろうとしても、また別の面白そうな情報がやって来て、そちらに目を向けてみると、また別のおもしろそうな情報がやって来るという循環を繰り返してしまう。つまり「八方美人化」。ということは、結局、彼らにとってはこの「情報の海」はつかみどころのない不安だらけのもの=カオスになってしまう。そこで、どう対処するかといえば、前述したような誰かが言ったところに追従するという「付和雷同」スタイルを採用することになる。だから、結局「お話=物語」にはならない。なったとしても、一過性の受け売りになる。

情報のコアを見えなくする教育の細分化

もう一つは教育の問題だ。戦後、学校教育は教育の合理化・効率化を求めそのシステムを細分化させるという作業をひたすらつづけてきた。だが、そういった合理化=効率化は、結果として、かえって作業を繁雑・煩雑にし、子どもたちに学習をどうやったらいいのかを不透明にさせてしまう。いろいろやってはいるけれど、結局のところ何をやっているのかわからなくなってしまうのだ。その典型は英語教育で、文法、リーダー、英作文、そして英会話など、こまごまとした項目に細分化したために、結果としてほとんどといってよいほど英語力が身につかないという事態を結果させている。僕が教鞭を執っている関東学院大学文学部現代社会学科の偏差値は50を割った程度だが、彼らの多くがいまだにbe動詞と一般動詞の区別すらつかないという状況なのだ。でも、この区別って、中学一年でやることなんだけれど……。もちろん英語で物語を作るなんてのは全くもってムリである。

物語はアイデンティティー獲得の基盤

人は自らが何者であるか知りたいもの。そして、何者であるかを知った上で自分が何をやろうかと考えることができる。だが、何者であるかを知るためには、自己イメージ、つまり「対象化された他者としての自分」を知っていなければならない。そして、それは「自分という他人」を物語ること、つまりあたかも他人のように自分のことを語ることができて初めて可能になる。言い換えれば自己についての語りの確かさが他者としての自分を取り入れていることの担保になる。これは社会心理学ではアイデンティティ=自己同一性という言葉で表現されている。

そして、この「自己についての物語」は実際の他者との関わりの中で形成される。つまり、他者と自分が関わり合い、ぶつかり合い、こすれ合う中で、だんだんと「他人とは異なる、他者としての自分」を発見していくのだ。さらにいえば、こういったアイデンティティ確立のプロセスは、翻って多くの他者のと関わりを要求するわけで、その関わりが多ければ多いほど自己は相手の空気を読めて、かつ自由に行動できるものとなる。つまり自己についての物語は社会性を獲得する手段となり、社会との関わりを実感できるようになるのだ。そして、当然ながら、「自己についての物語」はその背後に「社会についての物語」を同時に形成することになる。

「物語れない」と言うことは「自己がない」ということ

だが、現状ではこういった物語を語れない状況が情報化や教育システム双方によって構築されてしまっている。ということは、「物語が語れない」と言うことは、イコール「自らを語ることができない」つまり「自己がない」と言うこと。だから、自己紹介をしてもらったところで自分のことをプレゼンできないし、文章もまともなものを書くことができずに、文面はひたすら情報が羅列されることとなる(精神科医の大平健は、こういった「物語」を語ることができず、ひたすらモノやコトを並べ立てるような性格を備えた人格を「モノ語りの人々」と表現している)。

「自己がない」ということは「社会もない」ということ

これは、実はある意味、原始時代の人間に逆戻りということになってしまうだろう(ただしデジタル的に、だが)。原始時代の人間は個人の意識もなければ社会の意識もない、ただそこに生存と欲求、欲望だけのために生活していた。つまり、自己も他者も社会もない状況。彼らが物語れないというのは、実はこういったところまで先祖返りしているというフシがあると言えないこともないのだ。

だから求められるものは物語教育による自己と社会性の獲得ということになる。じゃあ、それはどうやったらいいんだろう?(続く)