以前、僕の先輩が白血病を患ったことがあった。彼は病名を知らされたとき驚愕すると同時に、自分の病気がどのようになるのかを知るためにネットで情報のチェックをし始めたのだが……その結果は、すべからく「死」という結論に達していた。調べても調べても、結局自分は死ぬ。絶望的な気持ちになると同時に、これはどう見てもメンタルヘルス的によろしい状況ではないので、それ以降、ネットで白血病のことを調べるのは一切やめることにしたという。

幸いにも先輩は骨髄移植が成功し病気を克服することができたのだけれど、これはネットというメディアを使う時に僕ら誰もががしばしば陥ってしまう典型的な例ではなかろうか(聡明な先輩ですらそうなったのだから、下々の僕らにすればなおさらだ)。まして、こういった不安や期待が大きかったりする心性の時には。

集合知が機能しない

インターネットは情報の海=洪水だ。一つのことを調べるだけでも、ベラボーな数の情報に当たることができる(逆に超専門的内容だと全くないという状況にもなるのだけれど)。だから、一見すると情報を集めることで、最終的に正確な情報にたどり着くように思える。いわゆる「集合知」が結集されていって、あっちこっちで情報をアップしていくうちに情報が収斂していくというふうに考えたくなる。つまりあることを調べる。そしてその項目についてザッと知ったところで、他のサイトに飛ぶ。その二つに共通の内容が書かれていることがわかる。さらに他のサイトに飛ぶ。そこでもやはり共通項目が。もちろん異なる内容も書かれているが、いくつも調べていくうちに、だいたいコアな情報部分に固まっていく。そして最終的に正確な情報にたどり着くというわけだ。

ところが、先ほどのエピソードでも見たように、残念ながら必ずしもそういうことにはならない。むしろ価値判断を混乱させるような事態がしばしば発生する。こうなってしまうメカニズムは単純だ。情報量が多すぎて、そしてさまざまな視点からバラバラの見解や分析がなされ、内容が拡散してなにがなんだかわからなくなってしまうからだ。つまり集合知が機能しない。そしてこういった事態は項目についての情報が多ければ多いほど発生する確率が高くなる。このことは以前にも本ブログで取り上げたが、たとえばネット上でのラーメン屋の評価がその典型。それぞれが、それぞれの立ち位置で、その立ち位置を示すことなく評価をするので見解がバラバラになってしまうのだ。正確な情報をつかみたいと思う側からすれば、これは完全なカオスということになる。

ネットは自分の潜在的な欲望を映し出す「映し鏡」

こういった混乱の状況で、ある項目を調べようとする。しかも、それが自分の生命やアイデンティティに関わるような問題だったらどうなるだろうか……いうまでもない。客観的な判断基準がないのだから、それは項目を調べる当人が任意に立ち位置を決めて情報を検索するしかない。そうすると……自分が願望する情報のみがどんどん集まっていってしまうということになる。先輩の場合、「自分は死ぬんじゃないか?」という恐怖に駆られながら情報を検索した。しかし、この立ち位置がネガティブなものであったのだから、結果として彼は「白血病によって死に至る情報」ばかりにアクセスしてしまった。だから、どれを調べても、必ず自分は死ぬことにしかならなかったのだ。

これはもちろんその逆の状況も考えられる。もう少し楽観的に「自分は必ず助かる」という前提に基づいて検索に行けば、死ぬことはない。いや場合によっては自らの病が「誤診」であるというかたちで情報を集めることすら可能になるのだ。そして、その結果、自分がとんでもない病気であることを否定するがゆえに、かえって命取りになるということにもなりかねない。

そう、ネットの情報は、しばしば自分の思いを映し出す「映し鏡」になってしまうのである。