「旬」のゆるキャラ

今、「ゆるキャラ」と呼ばれる一連のご当地キャラクターがウケにウケている。そのブレイクは彦根のキャラクター・ひこにゃんにはじまり、奈良のせんとくん騒動でまたひと盛り上がりし、そして熊本のくまモンが登場するに至って大ブームを巻き起こすに至った。とりわけくまモンは爆発的な人気で、今やディズニーのミッキー、ダッフィー、サンリオのハローキティに匹敵するほどの支持を獲得している。いったい、この人気はいつまで続くのだろうか。

話は変わるが、僕のところにも、このブームの余波が押し寄せた。本ブログで掲載した「くまモンはゆるキャラではない」(http://blogos.com/article/51024/という特集がなぜか当たりし、あちこちからの取材を受ける羽目になったのだ。で、その時ちょっとおいしいネタを仕込むことができた。それはくまモンの特集をするために取材をしていた記者が「ゆるきゃら」の生みの親、みうらじゅんに取材を申し込んだというエピソードだ。なんとみうらじゅんはこの取材をやんわりと断ってしまったのだ。「ゆるキャラは、もう自分のもとを離れているし、興味もない」のがその理由。

「なるほど、そりゃそうだ!」

僕は思わず膝を叩いた。そこで、今回はゆるキャラのゆくえについて、このみうらじゅんのコメントを紐解くかたちをとりながら考えてみたいと思う。

みうらじゅんの視点は意味のスキマにある

イラストレーターであるみうらじゅんだが、彼は糸井重里の下で働いたこともあり、コピーライターとしても大変な才能を発揮している。時代をクリアカットに切り取るコピーの数々を生み出しているのだ。マイブーム、クソゲー(作り込みが悪く、面白くないテレビゲーム。ただし、みうらは「くそゲーム」と呼んだ)、カスハガ(土産物屋に売っている、全く魅力のない写真が掲載された絵はがき)、とんまつり(生殖器などを祭のシンボルにしてしまう「とんま」な祭)、いやげもの(いただくとありがた迷惑な土産物)、そしてゆるキャラといった類いだ。

これらへのみうらの着眼点は一貫している。それはメディア論=記号論的に表現すれば「異化作用」を見ている側に起こさせるという点だ。ちょっと詳しく見ていこう。

記号論では記号を記号表現=シニフィアンと記号内容=シニフィエに分けて考える。これは辞書の機能を例えて考えるとわかりやすい。辞書は物事を調べるもの。その際には、まず調べたい項目を探し(国語辞典なら五十音順に並んでいる)、次に該当する項目の意味を調べる。この前者がシニフィアンで後者がシニフィエ。つまり辞書で引く項目=シニフィアン、そこに書かれている意味=シニフィエだ。たとえば「犬」というシニフィアンのシニフィエは「四つ足の、ワンワンと吠える、ほ乳類で、ペットとして親しまれている動物」ということになる。

そして、このシニフィアンとシニフィエは社会的な規定=コードによって結びつけられている。だから、上にあげた「犬」というシニフィアンに対して「四つ足の、ニャーニャーと鳴くほ乳類で、ペットとして親しまれている動物」と、1カ所だけ内容を変えたシニフィエに置き換えた瞬間、それはコードの規定から外れている、つまり「間違い」として否定される。

だが、みうらはこの間違いに着目する。たとえばクソゲー。これはすぐにゲームが終了してしまったり、逆にいつまでたっても設定されたレベルを超えられなかったり、同じパターンがいつまでも繰り返されてしまったりする、つまらないゲーム全般を指している。これらはいわば「設計上のミス」。だから通常なら「間違い」として否定されなければならない。ところが、みうらはこの間違いを、むしろヘンなもの、こっけいなものとして、むしろ肯定的に捉えてしまう。「間違っている」ものと「ヘンなもの」は似ているようでちょっと違う。間違っているものは即座に否定され修正を被ることになる。だがヘンなものは「間違ってはいるけれど、そこに何かいわれがあるような、正当性があるような気がする」というような印象をこちらに投げかけてくる。だから、そこに新たな意味を見出そうとするような契機=欲望が発生するのだ。これが異化作用だ。そして、このコードのズレ、シニフィアンとシニフィエの狭間は、いわば「闇」。記号化されていない一般庶民の深層心理に潜むもう一つの意味と言い換えることもできる。みうらはこれを見出そうとするのだ。

前述した、みうらが命名したコピーいくつかをとりあげて検証してみよう。マイブーム:ブームは集団、社会大で発生する現象だから、個人がブームを起こすという適用の仕方は間違っている。ところが、個人を社会と見立てれば新しい意味が生まれる。つまり個人の中で社会のブームのような現象が起きているという精神作用が意味として発生してくる。カスハガ:神社や観光地の土産物店で売られている訪問者・観光客のニーズを全く無視した絵はがきで、たとえば神社だったら「社務所」の写真の絵はがきなどがこれに該当する。だが、これがお客に媚びを売っているのではなく、売る側が主張している、だが場違いになっていると捉えると、突然面白い意味が生まれてくる。

そしてゆるキャラである。ゆるキャラは、ようするに「コンセプトのツメが甘い=ゆるい」という意味だ。これは正反対のミッキーマウスやハローキティと比較してみるとよくわかる。たとえばミッキーは全て○だけで設計され、キャラクターも設定も計算し尽くされた究極の「非ゆるキャラ」。こちらとしてはディズニー側が提供してくるミッキーのシニフィエとシニフィアンを一元的に受容するしかない(シニフィエは「強くて、明るい、元気な子。僕らのクラスのリーダー」)。ところがゆるキャラは素人、あるいはセミプロみたいな人間たちによって設計されたものだから、ツッコミどころ満載になる。つまり「ヘン」、そして記号化されない「闇」、身体が無意識に抱えている意味が潜んでいる。みうらはそこに諧謔的な魅力を覚え、その意味を理解しようとするのだ。

さて、それでは現在のゆるキャラブームでのゆるキャラはどうだろう?そんなズレから生じる「闇」=潜在的な意味を見出す「ツッコミどころ」が存在するだろうか?いや、存在しない。あるいは存在したとしてもみうらの視点とは全く異なった形で、いわばヴァーチャルに設定された「闇」だ(これがくまモンだ)。

だから、異化作用=ヘンなものへの意味探索を欲望するみうらの視線から現在のゆるキャラが外されるのは、ある意味当然なのだ。

そして、このみうらの視線、実はゆるキャラの未来を占うという点でもきわめて重要な意味を持っていると僕は考える。ではそれは何か?(続く)