東京ディズニーリゾート(=浦安一帯のオリエンタルランド社が運営する東京ディズニーランド=TDLと東京ディズニーシー=TDSを中心とするレジャー施設。以下TDR)は2012年、過去最高の入場者数を達成することが予想されている。そして13年度はTDL開園30周年を記念してより大規模なイベントが組まれ、さらなる入場者数が見込まれている。まさにTDRの運営は順風満帆という状況だ。だが、果たして今後もこういった順調な経営が続くのだろうか。レジャー施設は流行廃りが激しい。それゆえ、日本最大のこのレジャー施設とて、一歩方向を誤れば突然風向きが悪くなるということも十分考えられる。

今回は、TDLの三十年の動きを踏まえ、その未来(この場合はTDLを含むTDR全体の未来)について可能性を考えてみようと思う。というのもここ数年のTDRはかつてのスタイルとは大きく変貌を遂げつつあるように僕には見えるからだ。今回は、先ずその歴史をゲストとTDLとの関係に焦点を当てて展開してみよう。


きわめて低いディズニー・リテラシーの下でTDLは開園した

83年、TDLはまさにアメリカのアナハイムとオーランドにあるディズーランド(ディズニーランドとマジック・キングダム)二つのコピー的な存在として開園する。この当時、日本人のディズニーに対する認知度、いわばディズニー・リテラシーはかなり低いものだった。本家本元のディズニーが1966年、創業者のウォルト・ディズニー死去後低迷を続け(70年代、映画はアメリカン・シネマに代表されるように現実を反映したリアルなものが求められるようになり、ディズニーのようなハッピーエンドで脳天気な作品は時代遅れとみなされた。またディズニーも新作映画をほとんど作らなくなり、定期的に映画館で上映される作品も、もっぱらディズニー古典の再上映という体裁を採っていた)、70年代以降その流れの中で日本にもディズニーについての情報が入ってこなくなり、当時の子どもたち(現在四十代)とってもディズニーはあまり親しみのないものになっていたのだ(ちなみに、先行世代、五十代以降は六十年代にテレビ番組「ディズニーランド」を視聴していた世代であるので、むしろディズニー・リテラシーは高くなる)。

TDLはひたすらゲストを教育していた

こうやって日本ではディズニーが忘れ去られた83年にTDLは開園する。必然的にTDL側のマーケティングはひたらすディズニー世界を教育・涵養するという形式を採用することになった。開園に先立ち82年のクリスマスには、本邦初のディズニー長編アニメ映画のテレビ放映がなされ(コンテンツは「ピーターパン」だった)、さらには83年4月から日本テレビ枠でかつての短編アニメ三本が午後七時のゴールデンタイム枠で毎週放映された(この時、スポンサーの多くがTDLのオフィシャルスポンサーで、この時間枠専用のCMを作成しているが、これまたパーク内の施設を紹介するものだった。たとえばニッスイはマークトウェイン号、プリマハムはダイヤモンドホースシューレビューがフィーチャリングされていた)。また、開園初の昼のパレード”Tokyo Disneyland Parade”は、パーク内の各テーマランドを紹介するフロートによって構成されていた。


開園時に行われていた昼のパレード。各テーマランドの紹介が基調になっている。


この認知度の低さは83年の統計的データにも表れている。一年間で1000万人弱に過ぎなかったのだ(まだTDSが開園していない時代のTDLの年間最大入場者数は98年の1745万人)。開園当時、僕はTDLのキャストとしてパーク内で働いていたのだけれど、83年の6月のウイークデイは本当にガラガラという状態で「ここ、大丈夫なんだろうか?」と思ってしまったことをよく覚えている)。

ディズニー・リテラシーを涵養した外部要因

だが、その後、ご存知のようにTDLは現在に向けての発展を遂げることになる。これにはいくつかの要因がある。テーマパーク性の徹底、そしてホスピタリティの高さ、つまりキャストの教育が行き届いていることなどがそれだが、こういったTDLを運営する側のシステムについては既にあちこちで言い尽くされていることなので、取り上げない。むしろここではTDLをめぐる外部要因について二つほどあげておきたい。

ひとつは本家本元のディズニー側の改革がある。84年、ウォルト・ディズニー・カンパニー(当時の社名はウォルト・ディズニー・プロダクション)に乗っ取り騒動が発生した後、新たなCEOマイケル・アイズナーの下で大改革が進行し、90年代には新プリンセス三部作等によってディズニーがワールドワイドマーケティングに成功。こうした世界的なディズニー人気がディズニー・リテラシー涵養の、そしてTDLの人気の援護射撃となった。

もうひとつはTDLが人口5000万を数える関東圏+その周辺地域を抱える地域にあったこと、しかもそれが東京駅から電車で15分というきわめて交通の利便性にすぐれた地点に立地していたという要因がある。これによって非日常であるはずのディズニーランドという夢の国が、多くの人間にとって出かけようと思えばすぐに行くことの出来る「日常的な非日常の場所」となり、それが結果として多くのリピーターを生み出すことになったのだ。そして、今やTDRを支えるゲストの九割以上がリピーターとなっている。

こういった、ディズニーをめぐるインフラストラクチャーの充実が、80年代後半から90年代にかけてゲストたちのディズニーリテラシーを押し上げていくことになる。90年からは年間入場者数が毎年1500万人を超えた。そしてTDL開園時に子どもだったゲストは大人となり、子どもを産み、そして今度はこの子どもたちがディズニーファンとなり、さらには大人になって、再び子どもを産むというディズニーファンの再生産を繰り返すことになった。ウォルトがディズニーランドに吹き込んだ「ファミリー・エンターテインメント」、つまり家族みんなが楽しめるという状況が親子の間でも完全に実現する事態が90年代には実現したのだ。

だが21世紀に入りTDRとゲストの関係はその力関係を逆転させるようになる。一言で表現すれば、それは需要と供給の逆転、あるいは涵養される立場の入れ替わりという事態だった。(続く)