AKB48の峯岸みなみがユニットの掟である恋愛禁止を破ったことが発覚し、解雇を恐れて自ら丸刈りにすることで謝罪の誠意を示し、研修生への降格処分になった件についての議論がかまびすしい。そこで、僕もこの議論についてメディア論的に考えてみようと思う。ただし、プロデューサーである秋元康の立ち位置から。

秋元の関心はシステムにしかない

秋元のライフワークは常に「芸能界においてシステムを構築し、これを稼働、拡大させること」だった。そして「そのために女性タレントをコマのように扱うこと」だった。ただし、秋元自身はそのコマを動かさず、「コマ=タレントが自ら主体的にコマを進める」というスタイルを採ることで。これを進化させることに精力を注いできた。

このためにしばしばチョイスされたのが限りなく「素人」、限りなく「あまり才能のない」タレントたちだった。「素人」の方がコントロールしやすいし、「才能があまりない」ということは、彼女たちがブレークした際には、それは自らのプロデュース力が証明されたことになるからだ。古くは80年代。オールナイトフジの女子大生ユニット・オールナイターズ、80年代後半にはおニャン子クラブ、90年代後半には猿岩石。これらに共通するのは、まずはタレントたちが活動するフィールドを与え、そこにルールを施し、そのルールの範囲内で自由=主体的に動き回らせるというやり方だった。言い換えれば、秋元はコマ=羊それぞれにさしあたり関心はない。関心の焦点は、前述したようにシステムそれ自体の「動き」なのだ。これを逐次チェックし、システムの維持管理、拡大をやっていく。そういったシステムの構築こそが秋元が志向するものなのだ。そして、この志向はナルシスティックな欲望に基づいている。

実はファンもまたAKB48のメンバーそれぞれに関心を持っていない

実は、これは秋元のシステムを享受するファンもまた同様だ。というのもファンは、そのコマ=羊の動きを楽しむという、バラエティ「進め!電波少年」あるいは映画「トゥルーマン・ショー」のようなドキュメント・バラエティを楽しむといったところが、実は最も関心のあるところだからだ。もちろん、これは無意識だろうが。

ファンの関心は、さしあたりごひいきのタレント=メンバーでは、ある。ただし、このタレントたち、容貌、プロポーション、頭の回転の良さ、どれをとっても素人っぽい。これは松嶋菜々子、綾瀬はるか、広末涼子、竹内結子、長澤まさみ、宮崎あおいといった女優たちと比較してみるとよくわかる。まあ、いわば「輝きがない」「目力がない」(彼女たちのグラビアを撮影するカメラマンは、さぞかし大変なのではなかろうか)。実際、秋元もAKB48メンバーについてのコンセプトを「クラスで10番目くらい」の存在と公言している。

にもかかわらず、ファンはAKB48に首っ引きになる。なぜか?それはファンの方も、実は最も関心を抱いているのが秋元が提供するシステムだからだ。つまり、本当のところ、タレント個々に関心はほとんどない。じゃあ、なぜファンたちがメンバーに執着するのか。それは、前述したようにシステムの中のコマ=羊の「動き」が楽しいからだ。つまり、彼女たちのドキュメンタリーを見ることにワクワクしてしまう。

言うまでもなく、秋元はそういったシステムを設置している。「会いにいけるアイドル」というシステムから始まって、総選挙、じゃんけん大会、そして震災慰問などなど。こういった、コマ=羊が自由に(そして不定形に)活動可能なフィールドを用意し、そこで彼女たちがどういった振る舞い(パフォーマンスではない。しかし、このシステムの中ではパフォーマンスと認識されてしまうようになっているのだけれど)をするのかにファンは興味津々となるのだ。 そして、この「ドキュメンタリー」を追っかけていくうちに、自分を彼女たちと同一化しはじめる。 その結果、知らないうちに芸能人としては並以下にしか思われないAKB48のメンバーに思い入れをするようになっていく。つまりだんだんと容貌、スタイル、アタマのよさなどというものはどうでもよくなっていくのだ。だから、結局のところファンも、この「動き」に関心を持っているわけだ。

そして秋元は、こういったファンの「動き」を利用してシステムのメインテナンスに関心を持つ。まさに、これはドキュメントバラエティの手法そのものなのだけれど。言い換えれば、秋元はシステムのマクロ的側面、ファンはシステムのミクロ的側面に常に注目を寄せているのである。

システムの完成形としてのAKB48

そして、こういった秋元の欲望がどんどん洗練、純化されていったものこそがAKB48といった存在に他ならない。もはや、秋元自らが強制的に介入しなくても、彼女たち自らがシステム=羊飼いのフィールドの中で、さながらオートマトン=自動人形ようにシステムに対し従順に稼働するようになったのだから。しかも認識としては「主体的」に(こういった状況はオールナイターズやおニャン子クラブの時代にはなかった)。前田敦子は卒業し、宮澤佐江はSNH48に移籍し、指原莉乃はHKT48で活動している。一見すると前田のみが自らの主体的な判断でそうしたように見え、一方、宮沢は転勤させられたように、指原は左遷されたように見える。だが、そうではない。すべて「秋元という神」の「見えざる手」によって仕組まれたものだろう(だから僕はさきほど「主体的」とカッコ付きで表現したのだけれど。つまり彼女たちはあくまでも「羊飼いの羊」。認識論的にはどんなに主体的に振る舞っても、存在論的には秋元システムに拘束された受動的な存在でしかない)。そして、今回の峯岸みなみも全く同様だ。彼女は恋愛が発覚し、AKB48を除名されることを恐れ、自らオートマトンとして「丸刈り」という「主体的」な振る舞い=パフォーマンスに出たのだ。まさに秋元のお釈迦様の手のひら、羊飼いのフィールド内行為といわずしてなんと言おうか。

峯岸はフェードアウトしない。秋元は個人のメインテナンスも、それなりにちゃんとやっている

で、最近「体罰」が話題となっているので、これにかこつけて「これも体罰の一種だ」「やりすぎだ」と批判するムキもある。だが、これは秋元が運営している超管理システムの単なるメインテナンスに過ぎない。そして、これは体罰のようで見えて、実は秋元の「個人をメインテナンス」するというシステム内の機能を稼働させたということでもある(もちろんシステム全体をメインテナンスするという目的が先ず第一にあってだが)。峯岸のAKBでのランクは14位。16位までの選抜メンバーにランクインしている。ただし、下位だ。そこでこういった掟破りをすれば……ネガティブな意味ではあるが峯岸みなみという存在が広く認知されることになる。AKB48をあまり知らない人間なら、名前すら聞いたことのない峯岸の知名度を、今回の丸刈り事件は一気に高めることになるのだ。そしてそうすることでAKB48全体の知名度が高まっていく(要するに、関心のない一般人も、また一人、また一人と言った具合にAKB48のメンバー名を覚えることになる)。こういったネガティブな要素もまた秋元はシステム管理として用いてしまうのだ。

しかも、それは結果として、実は峯岸がアドバンテージを獲得したことにもなる。丸刈り事件をオーディエンスが騒げば騒ぐほど、彼女の将来が約束されるからだ。研究生に降格された峯岸は、その後、どうやって現状にのランクに復帰するのか?今度はオーディエンスはそういったプロセスに関心を抱くようになっていく。そこに秋元はつけ込むのだ。しかも、今回はそのプロセスをビジュアルに確認することができるという仕組みまで加わって。そう、峯岸の復帰プログラムのプロセスは「髪の伸び具合」によって確認可能なのだ。つまり、ここで秋元のまた例のシステム管理が登場する。こんどは峯岸復帰プログラムというドキュメント・バラエティが稼働するのである。このことはすでに前田敦子の卒業、そして指原莉乃のHKT48左遷の際にも見た通り(指原もまた、左遷させられることで知名度を一気に上げた。指原についての秋元のプロデュースについては僕のブログ「秋元康の「さしこ=指原莉乃左遷戦略」はエグい!」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2012/06/17をご参照いただきたい)。

捨てられる羊

ただし、くどいようだが秋元が愛着を寄せるのは自らの構築したシステムでしかない。言い換えればナルシスティックな欲望に基づいている。だから、メンバーは開くまでコマ=羊。だから、こういった「復帰」「卒業」プログラムを組めるのは、タレントがシステムを順機能的に作用させるときだけだ。つまり、不祥事を起こしたとしても選抜メンバーにランクインしていれば、もっと知名度を上げるためには使えるのでこういった「復帰」というプロセスを与えるが、ランクが低い場合にはシステム維持のために「恋愛禁止は解雇」という規定を事務的に作動させる。つまり「解雇」。それはシステムからすれば逆機能として作用するから。ようするに「不良品」として扱われるわけだ。これもまたメインテナンスというわけだ。

で、こうやって騒ぎ立てることで、実は僕も、秋元というシステムのお釈迦様の手のひらで舞っているだけと言うことに、まあなるんだろう。