TDKのビデオテープCMに登場したA.ウォーホール。その精神性は高須克弥と同じだ!



高須クリニックのCMで、主演する高須克弥院長は俗物を徹底的に演じることでメタ俗物的な位置に自らを置き、これによって自己を対象化・相対化し、さらに自らを「俗物高須院長」という記号としてカリカチュアライズするという作業を行っていることを、ここまで述べてきた。僕は、こういった高須のアプローチが、きわめて「美的」なアプローチであると評価している。

A.ウォーホールの実験

アメリカ、ポップアートの巨匠といえば、まず思い浮かぶのはA.ウォーホールだ。キャンベルのスープ、マリリン・モンロー、ジャッキー・オナシスといった一連のシルクスクリーンによる作品群は、まさにポップでなじみ深い。ウォーホールの手法は、きわめて単純。その最たるものが前述の有名人を描いたシルクスクリーン作品で、これは既製の写真をシルクスクリーンで色を変えただけというものだ。ちなみにキャンベルのスープもアメリカではきわめて大衆的なスープの缶であるこの商品を忠実に描いただけ。つまり、個性といったものがほとんど存在しない作品なのだ。

しかし、これこそがウォーホールの戦略だった。彼のねらいは「徹底的な非個性化」「非オリジナリティー化」で、それによってアートそれ自体に衝撃を与えることだった。そしてそれはある意味、アート世界へのシニカルな批判でもあった。つまり「アートはオリジナリティがなければならない」という命題に、「オリジナリティのない作品」というものを提案することで逆にオリジナリティの存在を示したのだ。

ウォーホールのアート界への攻撃は作品のみにとどまらない。ウォーホールは自らのアトリエを「ファクトリー」と名付け、そこで何枚もシルクスクリーンで作品をコピーし、ある程度コピーした時点で原盤を破棄し、残った作品に番号をつけて売りに出したのだ(こうすることで画数が限定されるので絵の価格が跳ね上がる)。つまりアートからはいちばん遠いと思われるビジネスをアートを使って展開した。そして、そのことを象徴的に示そうとしたのがアトリエをファクトリー=工場と表現したことだった。

こうやって財産を成したウォーホールはミック・ジャガー、ルー・リード、トルーマン・カポーティといったセレブたちと親交を結び、華やいだ世界で自らもスター・セレブという記号=ポップスターとなる。つまりアートの世界からはほど遠い、カネ儲けと有名になることを志向する「俗物」として振る舞ったのだ。

ただし、こういったウォーホールの戦略、つまりアートの否定、オリジナリティの否定、拝金主義、有名願望というやり方全体が、実はひとつのアートというパフォーマンスとして成立していた。つまり、ウォーホール自身は、創造、新たなパラダイムの構築、アート界のコード破りという、一般のアーティストたちが志向するのと同様の行為を、こういった存在論的な問いを投げかけるかたちでやって見せたのだ。つまり”確信犯”。

高須は常識を無視した上に、全てに"Yes"と肯定的なメッセージを発することで人々を啓発している

高須のやり方もウォーホルのそれと全く同じだろう。医は仁術、医者は人のために尽くさなければならないというような一般的な認識を、自ら俗物、つまり医学界が批判の的にしたくなるようなパフォーマンスによって打ち破る。しかも、自らそういったコード破りを行う記号として出現するというやり方で。だから、このCMは医学界からしたら噴飯物なのだ。

ところが、これを「人間賛歌」というふうに考えると、様相はガラッと変わってくる。高須のパフォーマンスはこういった慣習やコードに拘束されることのない自由な主体の営為として再定義されることになるのだ。その自由さを示す方法が「無根拠・無意味」だった。そして、その象徴的なものが「ドバイ編」であるとすれば、最たるものは一群の「院長の一日編」ということになる。これらはいずれも、とにかく人は自由に振る舞うこと、そうすることが正しいのだという強烈なメッセージとなっている。そして、こういった「自由に振る舞う」ということがテーマになったとき、無根拠なCMの意味は突然、俄然有意味の根拠あるものへと反転する。さらに、そこに、やはり無根拠に登場しているとしか思えない野村沙知代と西原理恵子二にも必然性が生じてくる。二人とも「自由に生きている」という点で、高須とライフスタイルを一にするからだ。

そして、このテーゼは、結局、本CMのメッセージにたどり着く。

すなわち

「自分を楽しんでいますか?」

そして高須の答えは、もちろん「Yes!」だ。

視聴者に働きかけていることは?
でも、それはやっぱり高須の自己顕示には代わりはない。成金俗物趣味をメタ成金俗物趣味に変更しただけで、自己顕示していることには同じだから。つまり他の成金同様、客を無視したナルシスティックでグロテスクな存在。言い換えれば「高須クリニック」の営業には、何ら貢献していないもののようにも思えるのだが。

いや、そんなことはない。こういった高須の自己顕示、メタ俗物的パフォーマンスが示す「自由に生きていい」という人間賛歌は、翻って顧客=患者たちに衝撃を与えることにもなっている。

高須クリニックは美容整形外科だ。つまり身体のあちこちを人工的に作り替えるという、医学としては「はみ出し」の、付加価値的な分野に当たる。インターネットで検索してみるとわかるが、たとえば有名女性アイドルタレントの中高生時代の写真が流出し、その顔立ちが現在とは全く異なるゆえ「○○は整形している」なんて陰口がたたかれる。ここには「整形までしてタレントになろうとした」という文脈が含まれている。ということは「整形=よろしくないこと」というコード・慣習が一般には定着している(まあ、以前よりはかなり認められるようにはなっているが)。この一般的慣習に、高須はこのメタ俗物CMで挑み、そして整形することの正当性をここで主張しようとしている。(ちなみに高須自身も顔を整形している。そしてそのことを公表している)。

つまり、人のことなんか気にすることはない。自分がやりたいように自由に生きればいい。そこで高須はCMでこういった容姿などで悩んでいる視聴者に訴えるのだ。それはつまり。

「自分を楽しんでいますか?」

で、高須は楽しんでいる。こういったメタ俗物性をCMを使って率先的に自己顕示することで。だから前述したように高須の答えは「Yes!」だ。ただし、高須クリニックのCMのキャッチフレーズはYesだけで終わらない。その後ろに一言加えられている。つまり、

Yes!「高須クリニック」

この訴えかけは、つまりこうなる。「あなたは自分を楽しんでいますか。もしそうでなかったら高須クリニックにいらっしゃい。そうすれば、自分を楽しむことについて「Yes」の答えを返せるはずだ!」そう 、「整形してどこが悪い!他人の目など気にする必要はない」と。そして、そういった常識破りを率先してやっているのがCM上の高須なのだ。

ここでも、高須は常識をぶっ飛ばし、楽しめ!と煽っている。


Good morning, Dr.Takasu.、次はどんな自分の楽しみをパフォーマンスして、僕らにYesを見せてくれるのですか?


付記:そういえば「Yes」をテーマにしている日本人がもう一人いた。オノ・ヨーコだ。オノも既成の概念にとらわれることなく自由に振る舞い続けていることについては、誰も疑わないだろう。そう、彼女のYesはビートルズまで解体させてしまたとさえ言われ、またジョン・レノンという作品を作りあげてしまったのだから。当然、自分を楽しむエネルギーが強いので、あっちこっちから非難を浴びているのだが、そんなものはYesといってはねのけてしまっている。ちなみにオノは2001年、自らの個展”Yes,Yoko Ono”はアメリカ美術批評家国際協会の最優秀美術館展賞を受賞している。