インターネットという情報環境の出現?

大学祭が盛り上がらなくなったことを、大学祭のキャッチフレーズをヒントに考えている。

80年代までは政治色がある、ないは別にして学祭は盛り上がっていた。当時、学生といえば「カネがない」というのが相場(まあ、今もそうだけれど)。だから学祭は年に数回しかない楽しいイベントの一つとして多くの学生が位置づけていたことも確かだった。

ところが、これが21世紀に入って様子が変わってくる。その大きな引き金となったのは、やはりインターネットを中心とした電子メディアの普及だ。大学の若者たちは(若者に限ったことではないけれど)、大学キャンパスという限られた物理的空間にその活動拠点を制限されていたことから解放され、インターネット、ケータイ、さらにはスマホを通じてさまざまな環境に身を投じるようになる(しかも経費的にも安上がりだった)。それは必然的に嗜好の多様化をもたらした。狭い空間に閉じ込められるがゆえに、その中でアイデンティティを形成することを余儀なくされるという状況が解消されたのだ。だが反面、それは学生における大学という存在・価値観の相対化ということでもあった。いいかえれば、大学という空間は学生たちが活動する様々な空間(サイバー空間を含む)の一つとして再定義されるようになった。だから、大学へのアイデンティフィケーションも薄れていったのである。

誰でも大学生

こういった大学へのアイデンティフィケーションの希薄化を促したのはそれだけではない。大学進学率の上昇も重要な要因だろう。90年代から大学はその数を増やし、さらに定員も増加。その結果、2005年には大学進学率は50%を超える。だから、大学生だからといってエリート意識を持つことはちょっと難しくなった。一方、少子化によって大学進学該当世代の人口は減少。その結果、文句を言わなければ必ず大学生になれる(しかもほとんど試験らしいものを受ける必要もなく)という時代が到来。かつては受験戦争の中で一生懸命勉強し、やっとのことで入るというのが大学。だから入ったことに誇りを持てたけれど、それすらなくなった。

こういった大学の存在、大学生であることの意味の希薄化の文脈で学祭も位置づけられるようになる。つまり多くの学生たちにとって学祭は「誰かが、よろしく、やっている」というものになった。学祭期間中は授業は休講となる。学祭は土日を挟んで四日程度というのが一般的。となると、ちょっと帰省するにはちょうどいいということで、この間、学生の多くがキャンパスから消えるようすらなっていったのだ。

祭の勢いを殺ぐアルコール・フリーという風潮の出現

これに、さらに拍車をかけたのがアルコールを巡るさまざまな事件だった。2006年8月、福岡の海の中道大橋で飲酒運転のクルマが追突し、相手のクルマが博多湾に転落。乗車していた家族の子ども三人が死亡した事件をきっかけにアルコール自粛というムードが社会全体を覆い尽くすようになった(祭の”振る舞い酒”すら「時節柄」という理由で中止されたほど)。この流れが大学キャンパスにも押し寄せる。キャンパスのあちこちでアルコール・フリー宣言がされるようになったのだ。これは大学側のリスク管理という側面が強かった。世は権利意識肥大の時代。もし、大学で学生が飲酒して何かトラブル(ケンカ、急性アルコール中毒など)に巻き込まれた場合、その責任は学生本人ではなく、キャンパスという環境で飲酒をさせた大学にあるという認識がだんだんと浸透していったのだ。そこで、大学側としてはこういったリスクは未然に回避したい。だからキャンパス内は次々とアルコール・フリー化していった。もう、ゼミ室でゼミ終了後に教員とゼミ生がちょっとイッパイなんていう牧歌的な時代は、責任問題が発生する恐れがあるゆえ、終わってしまったのだ。

当然、壮大な飲み会であるところの学祭の飲酒も次々と中止となった。アルコールのない祭なんてのは「クリープのないコーヒー」みたいなもの(たとえが古くてすいません(^_^;)。こんなスカスカの学祭で、しかも「だれかが、よろしく、やっている」みたいな感覚が学生たちの間で一般化してしまえば、当然、学祭は盛り上がらなくなる。

しかし、学祭は大学の重要なイベントの一つ。大学当局側としては、これがなくなってしまうのも困りもの。そこで結局大学側が学祭にテコ入れすることになった。つまり学生ではなく、大学当局主催のイベント。でも、これじゃあこの祭は、田舎の「○○銀座商店街まつり」みたいなもの。御輿を担いでいるのは子ども、そしてその周りを一緒に歩いているのは老人たちという、全く活気のない、そして管理され尽くした、言い換えればスカスカの催しと何らかわりはない。こうやって学祭における大学生の主体性は骨抜きにされてしまったのだ。

スカスカの学祭で必然的に生まれたスカスカのキャッチフレーズ

こういった、大学祭を巡る様々な要素が結果としてチャラい、やはりスカスカの学祭キャッチフレーズを生むことになる。学祭に携わる学生は一部だけ。そのやり方すら大学当局の指導の下で展開される。つまり「○○銀座商店街の子どもと老人の関係」。当然、キャッチフレーズにも主体性も気合いもない。だから「ま、こんなところで」ということで安っぽい横文字の、さながら売れないJ-POPのタイトルみたいなものになってしまった。まあ、こんなところだろう。そして、この流れはさらに加速していくのではないか。ひょっとしたら、そのうち学祭をやらない、つまり「大学祭フリー」の大学が出現するかもしれない。

最後に、まだ盛り上がっている学祭もあることを取り上げておこう。それは、ごく一部の大学に限られる。いいかえれば学生がまだ大学にアイデンティファイしている大学だ。それは……いうまでもなく東大、早稲田、慶応といった高偏差値大学だ。彼/彼女たちは、ここに入りたくて一生懸命勉強し、晴れて入学したのだから。