Facebookとmixiが共にリアルワールドを担保としたSNSでありながら、前者がますますユーザーを増やし、その一方でmixiがじり貧であることについて考えている。前回は、その原因の一つとしてユーザーのリアル・コミュニケーション・ネットワークの規模の問題を取り上げてきた。つまり、中高生(あるいは大学生)を中心とするmixiは若年層ゆえリアル上でのネットワークが小さい。一方、大人は大きい。これが結果としてmixi疲れという現象を発生させ、mixi離れを起こさせ、さらにFacebookへの移動を加速すると結論しておいた。

ハンドルネームという中途半端な実名性

ただし、こういったユーザー層の相違を生んだ理由は、やはり二つのSNSの機能的(=メディア特性的)な相違にあるはずだ。これはおそらくmixi=ハンドルネームとFacebook=実名といったところに求められるだろう。で、結論から述べればmixiのハンドルネームというシステムは中途半端、それゆえ袋小路に入ってしまったと考えられる。mixiは「匿名だけど実名」、つまりそのハンドルネームをマイミクたちは誰のハンドルネームであるか知っているというのが原則だ。で、言い換えれば全く知らないmixiユーザーとつながりマイミクになる可能性が、これによってグッと減ってしまう。しかも、マイミクになったところで、今度は逆にハンドルネームという匿名性が邪魔をして、相手が誰だかわからないから関係は限定する方向に気持ちが向かってしまう。要するにmixiは、実名の悪いところ=しがらみと匿名の悪いところ=誰だかわからないので危険の二つをハンドルネームというシステムによって併せ持ってしまった。その結果、身内から外に出ることが容易ではないという状況が作り出され、それがmixi疲れを起こし、一定期間を過ぎるとmixi離れという現象を結果してしまうことになる。

プロフィールを公開することの恩恵

一方、Facebookの方は実名だ。データ=プロフィールを書き込む部分に、自らの属性を書き込めば書き込むほど、その属性に関連した人間をFacebookは返してくる。僕だったら中学校、高校、大学の同級生なんてのがその典型だ。つまり自らの存在を公開することで、膨大な数の「かつての友人」をリストに挙げてくる。で、これらの人々と友だち申請すれば、こういった膨大な「リアルを担保にした友人たち」とのコミュニケーションが再開される。そして、これらの人間との関わりはmixiでティーン・エイジャーたちがやっているような狭い範囲に限定されたものとは異なっている。だから、深くなりすぎず、浅くなりすぎずという「ほどよい深さ」を獲得しやすい。もちろん、その一方でディープな関わり合いも可能だけれど、こういった「ディープ」「ほどよく深い」「浅い」の三つの関係が混在したかたちでニュースフィードに掲示される。だからいろんな人たちといろんなレベルで関わり合うことで、まあ忙しくはなるが、ネトネトとしたうっとうしい関係にはなりづらい。あるいは一部でなったとしても、それはFacebook全体で関わる友だちの一部に限定される。だから、こういったねっとりとした関わりでうんざりしても、それをあっさりした関係が相殺するというふうに機能してFacebookをやめる気にはならないのだ。でも、これって僕らのリアル・コミュニケーションと同じ。だからリアルな人間間における社会関係は維持される(ちなみに、こういったリアルとヴァーチャルのコミュニケーション様式が、逆に「表だっては言えないこと」を表明することを躊躇させるという側面も存在する。そこでFacebookユーザーは、そちらの「裏の話」はTwitterなどの他のSNSでやるということになる。この時、その「裏SNS」がmixiになることも、もちろんある)。

グループの連絡がプッシュ機能によって十全に稼働する

こんな特性を持っているから、グループを作っても円滑に作用しやすい。たとえば、メーリスや大学の連絡網をネットで作っても実は以外に上手く機能しない。というのも、これらはこちらが積極的に見に行かなければならないという「プル的なアクセス」を強いられるからだ。これはmixiのコミュニティも同様だ。ところがFacebookの場合は前述したようにたくさんの友だちとの多様なレベルでのコミュニケーションを図っているため、ユーザーはFacebookに積極的にアクセスする(というかネット上のコミュニケーションのプラットフォームとして機能するので、知らず知らずのうちに一日に何度もFacebookを開くことになるのだけれど)。すると、こういった友だちとのコミュニケーションが掲示されるニュースフィード上にグループ内での連絡も並列に並べられる。こうなると友だちとのやりとりがグループ内の連絡へアクセする動機を促す。つまり友だちとのやりとりはグループ内連絡をプッシュすることになるわけだ。

その結果、二つは同じリアルワールドを担保にしながら、Facebookは使用者の社交性=ネットワークの広さと使用用途の多様性によってユーザーを拡大し、mixiは逆に社交性の狭さと用途の少なさで、継続することに苦痛を来すような状況が次第に形成されることになったのだ。

で、結局どうなるかというと、僕は、このままならばmixiは最終的にどこかに吸収されて消滅してしまうとみている。mixiは、その狭い範囲でのしがらみを結果する手前、長期継続が原則難しく、しかもメディア性がFacebookと重複することで、もはや、行き場を失いつつあるというのが正直なところではないだろうか。

五年後、果たしてmixiは存在しているのだろうか?