Facebookとmixi、どちらも実名性に近い機能を備えている、つまり日常的関わりの延長として、そして日常的関わりを担保としてソーシャルネットワーキングサービスを展開している。にもかかわらず、mixiは近年「mixi疲れ」と称し、離脱するユーザーが増えている一方でFacebookの方はそのユーザー=人口拡大が止むことはない。この二つの違いの理由はどこに求められるのだろうか。

mixi=子ども向け、Facebook=大人向けとして広がった

実は二つとも同じような機能を有している。Facebookは実名主義だ。mixiはハンドルネーム性だが紹介制なので、結果として関わっている相手が既知の人物になることが多いので、その実名声は高い。また、グループを形成する機能も共に有している。だから片方が増えて片方が凹むというのは、本来ならちょっとヘンなのだ。

その原因一つは、ユーザーの属性にあると僕は考えている。Facebookはハーバード大学の社交クラブとして生まれたが、その後一般に開放され、主として大学生以上の大人層を中心に広まった。一方、mixiは日本のオリジナルで、主としてハイティーンを中心に広がった。で、この普及層の違いこそが二つの勢いを決定的に違うものにしているのではないだろうか。

リアル・コミュニケーションがSNS継続の担保になっている

大人は現実社会において様々な人間関係を構築している。例えば僕ならば、大学組織内の教員、職員、学生(前任校のそれらも含む)、親戚、友人、仕事相手、研究仲間といったネットワークを持っている。そしてFacebookはこういった既存の人間関係を活性化する役割を果たす。いや、それどころか完全に潜在化してしまって、長らく関わりのなかった関係者まで、さながらゾンビのように復活させてしまう。つまり人間関係における歴史のフラット化ということが起きる。だから、これらの人間と関わることで忙しくなる。その関わり方もプライベート的なものから仕事に至るまで実に多様。だから、そこでの関わり方もリアル・ワールドを反映したものになる。

もっともFacebook登録前からmixiには登録してはいた。でも、とんと利用することがなく、ほとんど開店休業状態になってしまっていた。理由は簡単、全然マイミクになるような人間が出現しなかったからだ。引っかかるのは教え子ばかり。これだとリアルもヴァーチャルも学生とつきあうことになってしまう。また、その内容についてもただのチャットという感じで、僕にとっては実用性の乏しいものだったのだ(「先生、友だち少ないんですね」と学生に揶揄されたこともあったけれど(^◇^;)。いや、違うのよ(`ヘ´))。

mixi疲れはリアルワールドでのコミュニケーション・ネットワークの狭さから発生する

ただし、mixiに関しては、こういったほとんど身内でのチャットという機能が趨勢を占めていることも確かなようだ。だから、リアルワールドでのコミュニケーション・ネットワークが小さく、既存のネットワークを強化して小さな世界を維持しようとする属性の持ち主にとっては便利な道具となる。そういった属性の持ち主とは、要するにティーンエイジャーだ。彼/彼女たちが関わる世界は学校とその周辺の域を出ることはほとんどない。しかも、それが数少ない、あるいは唯一のネットワーク。だから、これを失うことは社会とのつながりを失うことに等しい。だったら、この関係を始終維持し続けて不安を解消する必要がある。そこでmixiの登場と相成る。つまり学校でリアルに友だちとつながり、ネット上ではマイミク関係のもとでヴァーチャルにつながって互いを二重に縛り付けるのだ。こうすれば安心だが、だが、それは当然うっとうしいものとなる危険性を常に孕んでいる。だから、ちょっとした関係の軋轢生まれただけでも、このリアルとヴァーチャルによるネットワークの往還は精神的にツライものになる。で、これに耐えられなくなったとき、彼/彼女は「mixi疲れ」をおこし、ここから離脱していくのだ。

ということは、こういったティーンエイジャーがFacebookに乗り換えたところで同じことが発生する可能性が高いということになる。つまり、やっぱりFacebook上で現在のリアルワールドでのコミュニケーションネットワーク上にある人間と関わるからだ。当然、こういった人間たちは「Facebook疲れ」にもなるというわけだ。

もちろんFacebookとmixiの違いはそれだけではない。機能的な側面でも大きく異なり、それが現状における二つのSNSの優劣の違いを作っているのだけれど。(続く)