現代人が物語を語ること、つまりストーリー的に表現する能力が減退していることを本特集では考えてきた。そして「物語喚起能力の不全」という現状を説明するために、前回は「物語喚起能力が十全」となる状況について展開しておいた。で、今回はこの不全を説明するわけだけれど、それは「十全な環境」のどこの部分が抜け落ちたのかを考えればわかりやすい。

近隣の他者の代替としてのメディア

抜け落ちた部分は2つ。先ず最も大きいのが「近隣の他者」の存在だ。個人化が進み、共同体が崩壊。家族はカプセルとして周辺住民との関わりを持つことがなくなっていった(もちろん、完全になくなったというわけではない。厳密に表現すれば、これは関係が薄くなった、つまり関わる数が減り、関わっているそれぞれについても断片化したということになる)。その結果、子どもに対して物語を提供できるのが親だけという状況が作り上げられる。しかし、人間は情報行動する動物なので、情報を入手するということをやめるわけではない。そこで、アクセス先を変更する。それがメディアだった。メディアは資本の論理に基づく、つまり経済原理に基づいて運営されているので、それぞれが収益確保をめざして様々な情報を様々なチャンネルから提供するようになる。そして、それにあわせて情報テクノロジーも進化した。その結果、情報源は膨大になり、その一方でそれぞれの情報の深さは浅くなる。つまり情報の質が薄っぺらになっていくのだ。で、とにかく様々な情報が次々と現れ、この処理に子どもは追われるようになる。つまり、近隣では情報が少なく薄っぺら、メディアでは情報が膨大で、でも薄っぺら。それは、言い換えればもっぱら処理だけが作業となり、情報を吟味して物語をつむぐ時間を失うことを意味する。

でも、それならば親が徹底的に物語を子どもに提供すればいいのだけれど……ところがこれがダメなのだ。なぜかというと、もはや親の世代が物語喚起能力を喪失した世代だからだ。だから、そのつむぎ方を教えることはできない。これが抜け落ちた部分の二つ目だ。

こうやって子どもは物語喚起能力を修得する契機を失っていった。当然、情報と情報をつむぎあわせる能力も涵養されていないということは、相手と自分の関係をつむぎあわせることもわからない。だから空気が読めないし、逆に言えば必死になって空気を読もうとする。ちなみに、少ない情報を吟味し、またその情報の組み合わせも吟味してきた以前の人間は、本特集で展開したきたように身体が空気を知っているので( これは「言葉の言霊性」と呼ばれる)、読まなくても身体が空気を読んだことになる。だからKYにはならない。ところが、こういった身体を持ち合わせない(つまり言霊を持たない)現代の若者は、意識的に空気を読まなければイコールKYになってしまうという運命にある。そんな連中が、そのまま大学にやってきて基礎ゼミで自己紹介をさせたら、90秒の自己紹介すら苦痛で、なおかつひたすら情報を羅列するだけになったのは無理からぬ話なのだ。

物語喚起能力は女性の方が強い?

最後に現代の物語喚起能力の欠如について、面白いエピソードを1つ。僕は大学の講義の1つとしてビデオコンテンツを作らせるというのを十年近くやっているのだけれど、この授業を受ける学生たちには共通する傾向、しかもずっと同じのそれ、がある。それは「女の子の方が、総じて男の子よりはよい作品を作る」というものだ。だが、これも物語を喚起する環境を踏まえて考察すると見えてくる。まあ、それはジェンダーの問題でもあるのだけれど。

女の子の方がよい作品を作る理由は「テクを使わないから」と言ったところに求められる。作品を作らせると、男の子がやることは、とにかくいろんなテクを使いたがるのだ。ビデオ機器やビデオ編集ソフトの機能を、スケベ心でやたらと使うのだけれど、結局どれも「生乾き」の状態。出来上がったものをみせられたときには、はっきり言って支離滅裂で、それでいてエゴが前面にでてくるキモチワルイものになる。つまり情報の過多と意味の希薄という作品になる。で、こういった「演出」にもっぱらエネルギーをとられたお陰で、コンテンツ=ストーリーは希薄なものになってしまうのだ。

一方、女の子はジェンダー的に機械オンチという側面がある(生物学的には不明。というか、多分そんなものはないと思うのだけれど)。だから、これらの機能について最小限のものしか使わない。だが、そのお陰で少ない機能の使いこなしについては実に上手に操作するのだ。そう、女の子たちはジェンダー性に拘束されたがゆえに、かえってクリエイティブな作品、よくまとまった作品を作ることができるという側面が、どうやらあるのだ。これは、本当にそうで、学生たちが残してくれた作品の傑作は、ほとんど女の子たちによるものなのだ。もちろん、こっちの方が機械の操作方法としては本質的なんだけど。

と考えれば、情報化時代、女性のジェンダー性の方がまとまった話ができるわけで、それは要するに女性の時代がやってくるということなのかもしれない。う~ん、どうなんだろうかぁ。