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もはやTDSのメインキャラクターはダッフィーだ




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TDSにはぬいぐるみのダッフィーを撮影するポイントが置かれている



長期にわたってディズニーランド(TDL、TDS)ファンだった人間たちが、近年、ファンから離脱しつつあるのではないかという現状について考えている。前回は、この議論の前提として、前回は「パーク内における物語」というウォルトが一貫して示していた理念を示しておいた。今回は、その物語が崩壊し、それに心酔していたファンたちがTDL、TDS二つのテーマパークから離脱したという前提で話を進めていく。

TDLにおけるテーマ性・物語性の喪失

90年代後半からTDLはそのテーマ性を失いはじめる。たとえば昼間のパレード。98年から始まったディズニー・カーニバルからは、それまで存在したフロートやフロート間のテーマ性そして物語性が失われていた。そして、この傾向はその後も続き、さらにテーマ性・物語性を失って、現在開催されているジュビレーションではただひたすらキャラクターが顔を出す、つまりお披露目だけという、単なる「オールスターショー」になってしまった(だいたい「ジュビレーション」というタイトルが、実はなんのテーマ性も持ち合わせていないことを示している。これは「祝祭」という意味。つまり、祝祭にふさわしい出し物ならなんでもいいことになる。ちなみに僕は昼間のパレードにおけるこのテーマ性・物語性の喪失について、2009年、立教大学で開催された日本社会学会大会で報告を行っている)。また、トゥモウロウ・ランドのショーベース内に2004年、ワンマンズ・ドリーム・マジック・リブズ・オンという名前で復活した、かつて人気を博し93年に終演したワンマンズ・ドリームにも同様のテーマ性の破壊を見ることができる。アトラクションやレストランも同様で、2000年あたりから各所にグリーティング・ポイントが設けられ、キャラクターとゲストが記念撮影するという施設が作られたり、アドベンチャーランドにラーメン屋がオープンするといった事態が発生している。つまり物語性が全く無視されるようになってしまったのだ。

ダッフィーという悪魔がTDSから「大人のディズニー」の看板を剥ぎ取った

一方、2001年にオープンしたTDSは、TDLの脱物語化とのコントラストとしての役割を与えられていたといっていいだろう。テーマ性や物語性といったものは子供にはわかりづらい。しかし、大人はわかる。だったら、いっそのことTDLは思い切って子供に振ってしまえ。ただし、TDLがオープンして30年近くたったのだから、子供の頃TDLに親しんだ大人が楽しめるディズニーランドがあってもいい。それが大人のディズニーとしてのTDSの位置づけだ(実際、TDSは2009年、女優の黒木瞳を起用し「大人のディズニー」というキャンペーンを行っている)。TDSは物語性を重視し、またディズニー精神を持った大人が楽しめる場所として、ちょっとリッチな料理とアルコールを用意した。こんなかたちで二つはパーク客の棲み分けをするはずだったし、実際、当初はそうだった。実際テーマ性を失いつつあるTDLに「ファンとしての立場」からは、その深みを感じなくなっていた僕はTDSのオープンを諸手を挙げて歓迎した。

ところがTDSにもテーマ性、物語性の喪失はやってくる。オリエンタルランドが考案した一つの戦略がバカ当たりし、それがTDSを覆い尽くし「大人のディズニー」というTDSの役割を喪失させてしまったのだ。その戦略とは……ダッフィーという「物語を持たないキャラクター」の出現だ。ミニーが航海に行くミッキーのために、ダッフルコートに入れられるようにと作ったぬいぐるみダッフィー(アメリカではディズニーベア)は、キャラクターとして大ブレイクし、ついでに彼女のシェリーメイとか、ユニバーベアといったオマケキャラクターまで誕生した。その結果、日本中にダッフィーが溢れ、そしてTDSはダッフィーの総本山・聖地として位置づけられることになる。

その結果、TDSはどうなったのかと言えば、なんのことはない、「ダッフィーランド」になった。当初、テーマ・シーの一つアメリカン・ウォーターフロントのアーント・ペグズという店だけで発売されていたダッフィーグッズは同じテーマ・シーのマクダック・デパートメント・ストアにまで進出。そして今やパーク内のあちこちで売りに出され、ショーもマイフレンド・ダッフィーという具合にダッフィーを大幅にフィーチャーしたものになっている。パーク内はダッフィーのぬいぐるみを抱いたりカートに載せたものすごい数のゲストが闊歩している。その多くがティーンエイジャーの女の子たちだ。そう、全ての物語がダッフィーによって台無しにされ、こちらもまた大人のディズニーから子供のディズニーへとその位置づけが変更されたのだ。

積層しない物語は大人の鑑賞に堪えうる文化性を帯びることはない

もちろん新しいアトラクションやレストラン、そしてキャラクターにも物語は付与されてはいる。ただし、これは既存のテーマや物語との関連を持たないスタンド・アローンな物語。だから、物語といっても、物語の積層によるパークの文化的厚みはいつまでいっても出来上がらない。いや、それぞれがバラバラのテーマで無意味に並べられているがゆえに、現実はますます薄っぺらい、奥行きのない、それでいて派手ばでしい、子供だましの世界が現出してしまうのだ。これはTDLではすっかり完成されており、完全な”お子様ランチ”状態になっていたのだが、この煽りがダッフィーという刺客によってTDSにまでやってきたのだ。

ちなみに本家アナハイムのディズニーランドはこうはなっていない。物語=テーマ上に新しく付与される物語は、そのコンテクストを踏まえ、さらにそれらに厚みを加えてウォルトの精神を上塗りするという作業が繰り返されている。だから、ここは文化、芸術としてのテーマパークであり、独特のアウラを発しているのだ。それは年輪を重ねるがゆえに、必然的に大人たちの鑑賞眼にも耐える、そしてその文化的変容をゲストが加齢とともになぞることのできる真の意味でのファミリーエンターテインメントを維持し続けている。

で、前述したようにTDLおまけにTDSは無意味なモザイクによって形成されるチープなごった煮的世界なのだ。たとえばTDSのアメリカン・ウォーターフロントの二つのアトラクションタートル・トークとトイ・ストーリーマニア。一つはファインディング・ニモに登場する亀のクラッシュとの会話、もうひとつは3Dを使ったトイ・ストーリーのキャラクターが出現する的あてゲーム。この二つがアメリカン・ウォーターフロントに配置される理由はほとんど希薄だ。ちなみにフロリダのウォルトディズニー・ワールドでは前者も後者もディズニースタジオという映画のテーマパーク内のピクサーコーナーに設置されていて、テーマ性と物語性をしっかり踏襲している。

テーマと物語のない空間は子供だまし

こういったウォルトの精神なきTDL、TDS二つのテーマパークの将来はどうなっていくんだろうか。そのことを示唆するのが今回の特集で取り上げた脱ディズニーランド化したかつての熱狂的なディズニーファンたちなのではなかろうか。(続く)