スマホを「賢いケータイ」ではなく「機動性の高い持ち運びのできるウエアラブル・コンピュータ」とみなした場合のスマホ・ライフについて、僕の例を基に考えている。前回まで紹介したように、僕のメディア・ライフはほぼスマホ・ライフとなった。

棲み分け?消滅といった、さまざまな「重層決定」メディア・ライフ

スマホがあらゆる領域でメディアとしてしゃしゃり出るようになると、当然、これと機能を重複させているメディアは何らかの変容を受けることになる。あるものはスマホに凌駕されてしまい消滅する、あるものは棲み分ける、そしてまたあるものはメディアとして再定義されていく。いわばカルチュラル・スタディーズが言うところの“メディアの重層決定”という現象が発生する。で、前々回までは僕の現在のスマホ・ライフ、前回はスマホ以前のメディア・ライフについて、一日を時系列で追っかけるスタイルで紹介させていただいた。今回は、ではこういうかたちでメディア・ライフがスマホ・ライフになることで、僕のメディア・ライフが実際どう変わっていったのかについて、今回は旧メディアのその後との関連で展開してみたいと思う。

パソコンはスマホのベストパートナー

先ずは、モロに機能が重複すると思われるものから考えてみよう。その最たるものは、言うまでもなくパソコンだ。これはスマホが「携帯できるパソコン」なのだから、まあ当然なのだけれど。で、パソコンはかなりの機能をスマホにとられていく。とりわけ機敏さを必要とするような作業については、パソコンの出番がなくなっていく。ちょこっとメールを打ったりニュースをブラウズしたり、スケジュールをチェックしたりというのがその典型。その一方で、腰を据えてやる作業については、パソコンの役割は、かえって大きくなる可能性が高い。長い文書を書くとか、大がかりな検索を行うとか、あるいはビデオや雑誌の編集をするとか、統計調査を行うとか、スマホのアプリや機能を整理するとか、年間スケジュールをスケジューラーに打ち込むというのがこちらの領分になる。たとえば僕は、こうやってほぼ毎日ブログを書き続けているけれど、これをスマホで書こうという気にはさすがにならない。フリック入力や手書き認識機能などで入力方法は進歩したが、やっぱりパソコンのフルキーボードにはさすがに迅速性では全く叶わない(だから、結局、通勤中も未だにパソコンを持ち歩いているのだけれど。ただしMacBookAirで計量化を図りはした)。また情報の細かい処理も、当然パソコンだ。ようするに出先でちょこっちょこっとという場合にはスマホで、家でじっくりという場合にはパソコンでと言う棲み分け図式が完成する。で、その用途としてはパソコンはよりビジネスや仕事、作業といったカテゴリーにシフトし、エンターテインメントの要素は減っていく。

新聞や雑誌はモロに食われた

同様にモロに機能が重複するものに新聞や雑誌がある。で、これははっきり言ってかなりヤバい。そのほとんどが重複し、なおかつ利便性、経済性でスマホの方が勝ってしまうからだ。もはやスマホでインターネットにアクセスすれば、新聞とほぼ同様の情報、いや場合によっては新聞より深掘りの情報を獲得できる。しかも、お代はほとんどタダ。で、こういった情報のチェックはかつてはパソコンがその中心を担い、新聞雑誌の領域を浸食していたが、これにスマホが戦列に加わることで新聞雑誌は波状攻撃を受けているといった状況だ(ちなみに情報のチラ読みはスマホ、じっくり読みはパソコンといった使い分けも発生している)。

新聞の購読をやめた二つの理由

僕は一年ほど前、新聞の購読をやめてしまった。その理由は二つ。一つはこれまで産経新聞を購読していたのだけれど、なんとこれがスマホで読めるようになったからだ。しかも産経新聞は太っ腹にも全文が無料。で、他の新聞についてはネットの新聞サイトを見ればダイジェストの部分は判る。ちなみに最近、毎日新聞も読むようになったのだが、これは雑誌アプリ「ビューン」を購読しはじめたから。毎日新聞はビューンに毎日掲載されている。

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産経新聞スマホ版・なんと全文タダ。タダしiPadは有料。

もう一つの理由は、新聞が「大して面白くないこと」を発見してしまったため。もちろん、以前に比べて質が落ちたといっているわけでは、必ずしもない。「面白くない」というのは、新聞というメディアのメディア性が備える宿命に基づいている。新聞はマスメディア、つまりマス=大衆・膨大な数の人々に向けて情報を伝達するメディア。それゆえ、必然的に情報の内容はこういった大衆が理解可能な範囲を超えてはいけないという制約が課せられている。だが、それは結果として、記事の内容が「深すぎず、浅すぎず、そして当たり障りのないように」というスタイルを採らざるを得ないことになる。

で、かつてだったら、それでもまだよかった。報道に関する情報が新聞やテレビに限られていたからだ。で、当時のわれわれ一般大衆は、こういったレディメイドの情報に満足していたのだ。

ところが、インターネット環境が充実することで、情報についても非常に広範な分野から、しかも多彩な価値観を持って情報が提供されるようになった。また、より深く知ろうと思った場合でもインターネットから情報を引っ張ってくるのが便利ということになった。つまり広さでも深さでもネットの方が新聞より上。で、こうなると、今度は新聞の情報=報道が「帯に短したすきに長し」の中途半端なものになっていく。また、さまざまな情報を多面的に入手するようになったので、新聞の情報もかつてのようには信頼を置かず、「情報の一つ」として捉えるようになったのだ。当然、新聞の情報も頼るべきものではなく相対化された(いいかえれば、それはかつて信じられていた「新聞の客観性・中立性」という幻想が剥がされたということでもあったのだけれど)。まあ、要するに膨大な情報の海の中に投げ込まれた、言い換えれば新聞は馬群れに埋もれてしまったのだ。

じゃ、雑誌はどうなった?(続く)