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難波江和英/内田樹『現代思想のパフォーマンス』映画評論の科学性を追求したテクスト論だ。また、現代思想の概念が学べるようにもなっている。



レビューの書き方について考えている。ここまで、無名である僕たちがネット上で説得力あるレビューを書くため、つまり社会性=有用性を獲得するためには1.このレビューがあくまで「個人的立場であること」を表明すること、2.自らの議論の立ち位置を明らかにすること、の二つの手続きが必要であることを示しておいた。ちなみに、この二つのレベルを維持しているのが良質なレベルの映画評論家やジャーナリストの文章ということになる。

しかし、レビューの書き方にはもう一つ上のレベル、つまりレベル3がある。これは「科学=アカデミズムとしてのレビュー」ということになるだろう。これはレベル2までの手続きで、その社会性=有用性=実証性に欠けた部分を補填する作業がなされているものだ。

価値自由レベル2の欠点~個人的視点についての正当性がないこと

レベル2の欠点は何だろう?それは、個人的な意見を表明し、そして自らの議論の立ち位置を明らかにしたところで、結局、議論の立ち位置が「個人的な視点=立場」の域を出ないことだ。前回の例を挙げれば「この作品を傑作(あるいは駄作)という立場から展開する」というのが典型で、傑作(駄作)と決めつけ、それ以降の展開(つまり認識論的な展開)を明確にしていくのはよいのだが、実を言うと、なぜ傑作(駄作)と決めたかについては根拠がない。この部分は「主観」、つまり個人的な視点に基づく。哲学的な表現をすれば存在論的問いを不問にしているということになる。

価値自由レベル3~概念を用いたテクスト分析

そこで、この存在論的立ち位置を明確にするのがレベル3ということになる。これは具体的にはレベル2において用いる議論の立ち位置=視点を個人的に設定するのではなく、既存の概念装置をあてはめ、その概念の手続きに基づいて分析するというやり方で、これは記号論では「テクスト分析」という手続きに該当する。

この典型を見ることができるのが内田樹と難波江和英の『現代思想のパフォーマンス』の中で展開されている映画分析だ。本書の中で、「不思議の国のアリス」ではソシュールの言語論、「エイリアン」ではロラン・バルトの記号論、「カッコーの巣の上で」ではフーコーの権力論を用いてというふうに、現代思想の概念を用いて様々な映画に切り込んでいる(また、本書は現代思想の概念の実践的な運用例という意味合いもある)。たとえば「カッコーの巣の上で」(執筆は難波江)では、主人公たちが収容されている精神医療施設がパノプティコン(一望監視システム)によって監視され、それが現代社会を象徴する物語になっていることを析出している。

こういったテクスト分析においては、自らの立ち位置は限りなく相対化される。個人の見解でしかないこと、個人の立ち位置を明確にすること、そしてその立ち位置もまた社会性を有した理論的概念に基づくこと(ちなみに、この時残る唯一の主観的視点は、映画の分析にあたって概念を、恣意的に選択したことだけだ)。こういった議論の対象化=相対化の手続きを採用することによってレビューはより科学性、文芸性、アカデミズム性を有し、その有用性を高められていくわけだ。ちなみに、僕もこれと同様の(ただし真似事みたいなもんだが)手続き映画レビューをやっている(ニューシネマパラダイス、カール爺さんの空飛ぶ家、ピーターパン、2001年宇宙の旅など)ので、興味のある方は本ブログの「映画批評」の書庫をチェックしていただきたい。

まあ、レベル3までやると、さすがに面倒くさいということもあるけれど、いずれにしても僕らに求められているのは、こういったレビュー・リテラシーであることは確かだろう。ただし、残念ながらこういった分野に対して教育を施すシステムを、現在の教育機関が何も用意していないのは残念だ。いや、もっとはっきり言えば「レビュー論」という分野が全くといっていいほど開発されていないという現状は嘆く他はない。。インターネットで誰もが書き込み可能になった現代、こういった分野でのマナー・ルールを守る、それによって僕たちの映画リテラシーを高めていくといった教育をそろそろ開発すべき時に来ている。僕はそんなふうに感じているのだが。