イメージ 1

社会学の巨人、マックス・ウェーバーおじさん


おすぎの映画評論をネタに、一般人のレビューの書き方について考えている。前回はインターネットに書き込むレビューワーのレビューも、おすぎの映画批評も、好き勝手に評論していることには変わりはないこと、だがおすぎにはタレント性があるため、その露出するパーソナリティが担保となって評論に社会性、つまり有用性が生じることを指摘しておいた。だったら、こういったタレント性を備えない一般人がレビューを書くときには、どうしたらいいのだろうか?という問題が立ち上がってくる。

好き勝手なことを書いてもいい、ただし……

先ず、これだけは確認しておこう。だからといって「好き勝手なこと書いてはいけない」ということにはならないこと。言い換えれば、やっぱり「好き勝手に書いてもいいこと」ということを。レビューはいろんな人間がいろんな立場から書き込むこと。それによって、作品に対する多様な読みが展開され、映画に関するフォーラム、つまり討論の場所が作られるからだ。それによって映画作品の深みを僕たちは認識することができる。そして、そこにこそレビューの価値がある。だから、それぞれの感性に基づいた「好き勝手な視点」は尊重される必要がある。

「好き勝手」に社会性=有用性を挿入するために必要な「価値自由」

ただし、フォーラム=討論であるからには、当然そこにはマナーやルールがある。例えばプロレスだったらナックルパート(グーで相手を殴る)やトゥキック(つま先蹴り)は禁止だ。これをやったら試合が瞬間的に終わってしまうし、事故やケガ(場合によっては死)に繋がってしまうからだ。もし、レスラーがこんなことを頻繁にやるようなら当然、プロレス界から追放される。そして、こういったマナーやルールを守ることが社会性=有用性を確保する条件となる。

ではレビューにおけるマナーやルールとは。それは、突然、難しい社会学の用語を持ち出すようで申し訳ないが、「価値自由(Weltfreiheit)」という、社会学者・マックス・ウェーバーの言葉にたどり着く。これは、ものすごく簡単にざっくりと表現してしまうと「何を言ってもいいけれど、その際に、自分の言いたいことの立ち位置をはっきりと表明しておくこと」ということになる。

価値自由レベル1~レビューにおける「噛みつき合い」を避ける方法としての

この最も初歩的なレベルは、自分のレビューの内容が、あくまで「個人的な立ち位置から述べたものに過ぎない」ということを、読み手、そして自分双方に向かって明確に表明する態度に求められる。たとえばレビューでしばしば発生する揉めごとの一つに、他人が書き込んだレビューに読み手=レビューワーが噛みつくというものがある。この時、しばしば議論に収拾がつかなくなるのは、「自らの立ち位置をあくまで個人的意見として相対化する」という視点が応酬し合う双方に共有されていないからだ。つまりレビューを読んだ側は自分の意見の方が絶対に正しい、普遍的であるという上から目線で相手(レビューの書き手)に攻め込み(この時、攻め込む側には、こういった「自分の意見は普遍性がある」という自覚がなく、無意識の内にこういった態度がとられている。だからタチが悪い)、これに受けて立つ書き手側も同様に自らの意見を相対化せず上から目線でやり返す(もちろん、こちらもタチが悪い)。こうなると結果として議論の内容を深めるよりまえに「ガンの付け合い飛ばし合い」になってしまう。つまり、議論の内容とはかけ離れた「どっちの方が偉い」かを決める権力闘争という、どうでもいい展開になってしまうのだ(ちなみにウェーバーはこのことを「神々の闘争」と呼んだ)。

だが、「あくまで個人的立場」であることを表明しておけば、相手も「この人はこういうふうに考えるのね」ということになって議論に社会性=共通の地平(つまり、最低限の社会性)が発生する。また、あくまで立ち位置が違うと言うことで、これを読んだ側が噛みつくこともない。繰り返すが、相手に噛みつき始めるのは、自らの映画に対する立ち位置を絶対化し、またレビューもこれと同一線上に位置づけることによって発生するからだ。つまりその映画に対する評価の視点が自分のものひとつしかないと決めつけていて、それとレビューが合致しないとなると、それは「間違い」ということみなされて、その意見をつぶしにかかろうとすることによって「噛みつき」は発生する。

だが、こういったレビューに対する相対的な視点を書き込む側と読む側が共有していれば、読み手はレビューを「自分以外の立ち位置からの意見」として捉えることが可能になる。そして、それらのどれを支持するかは読み手の任意に任されるということになる。また、もし読み手が噛みついてきたとしても、書き手の方は「これは、あくまで私個人の見解ですから」と回答すれば議論の紛糾は避けることができる。

ただし、これだと議論に深みは生じない。より社会性=有用性を持たせるためには価値自由の考え方をもう一歩押し進める必要がある。言い換えれば本格的なフォーラムを形成する必要がある。では、それはどのような方法だろう?(続く)