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ナンシー関が描いたおすぎ(右)とピーコ(左)


おすぎは好き勝手に、言いたいことを言っている?

おすぎは、映画、とりわけ洋画の普及に貢献する映画評論家としてはつとに有名な存在だ。弟(妹?)のファッション評論家・ピーコとともに現在のオネエ系タレントの元祖という存在でもある。映画雑誌「キネマ旬報」に文章を掲載し始めてから、既に四十年近くがたっており、淀川長治、水野晴郎といった大御所が逝った現在、映画評論家としては筆頭的な存在と言っていいだろう。

ただし、である。おすぎの評論は、そんなに素晴らしいものなんだろうか?なんか、言いたいことを適当に言っているるように思えないでもないのだけれど。こういった疑念を抱くのは、現在インターネットのYahoo!などにアップされている一般人のレビューと比較してみるとよくわかる。なんのことはない、こちらも言いたいことを言っているわけで……。ということは、どっちも低レベル。ということは、おすぎの映画評論(テレビ、文章)がメディアに露出するのは不当と考えるべきなのではないだろうか。

映画評論の正当性

たしかに、贔屓目に見てもおすぎはかなり適当なことを言っている。評論と言うよりは、自分の「好き嫌い」の感覚に基づいてノリで批評しているように見える。この辺は、師匠である淀川長治とは圧倒的に異なるところだ。淀川は人生を映画評論に賭けた男?で、その映画に関する膨大な知識を背景にした評論は、時には辛辣なものではあったけれども(ただし、日曜ロードショーでは、放映する作品に一切批判をしなかった。にもかかわらず、この作品が良いのかクズなのかをメタメッセージで視聴者にキチッと伝えるという裏技を使っていた強者だった)、アカデミズムと感性に満ち溢れる舌鋒鋭いものだった。だが、おすぎは、これとはかなり違っている。じゃあ、おすぎの評論はダメなのか?いや、そうではない。

映画評論はの正当性は、その社会性に求めることができる。もう少しわかりやすく表現すれば、評論の内容が読者にとって有用であったかどうか。有用であるかどうかは、その評論の立ち位置=パースペクティブを読者が共有しており、その立ち位置に基づいて理解可能で、そこから映画に関する情報を取り寄せることができる場合だ。

おすぎの評論と一般の評論の決定的な違いは社会性

残念ながら、インターネットに書き込まれる映画レビュー(本のレビューなんかも同じだが)は、こういった認識を持ち合わせていない。アップする側は読者のことなど考えることなく、自分の印象を勝手気ままに書き込むというパターンが実に多いのだ。そして、この手の文章には共通の特徴がある。それは「何様のつもり?」とこちらが思ってしまうほど上から目線になっていること。いいかえれば、プライベートな感情や偏見の部分をインターネットという公的な環境に露出しているということでもあり、また、自らの視点に対する反省的態度、つまり自己を相対化する視線を持ち合わせていない。だから、読んでいる側としては自己欺瞞に満ちたナルシスティックで「キモチワルイ」ものに見える。

さて、おすぎである。おすぎがやっていることも、こういった社会性を無視した、好き勝手な評論をやっていることではかわりはない。しかし、である。おすぎのそれは、映画評論の社会性と言うことを踏まえて考えた場合、十分に有用なものとなるのだ。つまり、社会性がある。なぜか。

タレントという担保

おすぎの場合、映画評論家であると言うことよりもタレントというイメージの方が一般的に強い。コメンテーター的な立ち位置で、他のタレントにツッコミを入れるというのが役所で、実際にコメンテーターをやったりもしている(KBS、そしてフジテレビの「特ダネ」など)。実は、これがおすぎの映画評論に社会性=正当性を持たせる担保となっているのだ。

視聴者はタレントとして頻繁にメディアに露出するおすぎのパーソナリティを知っている。だから、おすぎがどういう立ち位置を持っているのかということを、これらから(とりわけテレビから)伺い知ることができる。それゆえ、おすぎが映画評論を行うときには、こういった「おすぎの考え方についてのコンテクスト=文脈」を保持していることになる。つまり、視聴者たちはおすぎの立ち位置をおすぎと共有することができているのだ。

こうなると、おすぎがノリや気分でどんなに好き勝手な批評、評論をしようとも「あのおすぎが、この映画を、そんなふうに考えているのか」ということになる。だから、僕らはおすぎから映画に関する有用な情報を取り込むことができる。いいかえれば、インターネットのレビューに書き込むレビューワーが「何様のつもり?」でしかないのに対し、おすぎの場合はそれに対する回答があることになる。つまり「おすぎ様」なのだ。

さて、ここまで、おすぎによる映画評論の正当性の根拠について展開してきたが、僕がここで考えてみたいのは、じゃあ、おすぎのようなタレント=有名人でないわれわれ一般の人間、つまりレビューを読む側がコンテクストを共有しようのない書き手が、インターネットの映画レビューに書き込みをする際には、どうしたら正当性=読み手にとっての有用性を確保できるのかと言うことなのだ。それはとどのつまりレビューの書き方と言うことに他ならないのだけれど。次回以降、レビューのまっとうな書き方について考えていこう(続く)