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カジュアルな視線でインドのバックパッキングを描いた蔵前仁一の『ゴーゴ・インド』



遂に休刊「旅行人」

バックパッキングの雑誌「旅行人」が2012年上期号を最後に休刊した。情報誌としてバックパッキングという旅スタイルを牽引してきた同誌だが、ついにこの日がやってきてしまったのだ。だが、この現実は「旅行人」という雑誌のスタッフに求められるものではない。むしろこれは、ある意味、情報化社会における必然的結果と考えた方が当を得ている。

そこで、今回は「旅行人」が人気を博したこと、そして2012年という年に休刊に至ってしまったことについてメディア論的視点から分析してみたいと思う。

バックパッキングをカジュアルにした蔵前仁一、そして雑誌「旅行人」

93年に月刊誌として創刊した同紙は、90年代後半のバックパッキング・ブームに大きな役割を果たした。80年代、バックパッキングの隆盛とともに、これを先導したのがダイヤモンド・ビッグ社の「地球の歩き方」だったが、86年のプラザ合意によって円高が急激に進行し、日本人が海外へどっと繰り出すようになると「歩き方」はその編集方針をバックパッカー向けのものから一般の観光客向けのものへシフトしていく。ところが、学生たちのバックパッキング熱はむしろ80年代末から加速する。そんな需要に見事に応えたのが「旅行人」だったのだ。

「旅行人」が支持されたのは、この分野がニッチであったことはもちろんだけれど、それだけではない。この情報誌の編集長であるイラストレーター・蔵前仁一の存在によるところも大きかった。70~80年代、バックパッキングは、ともすればちょっとスノッブなものでもあった。当時はまだ海外旅行は一般的なものではなく、その多くがパッケージツアーを利用していた。そんな中、敢えてチケットだけを購入し、海外を自分の脚で周遊するというバックパッキングのスタイルは「蛮行」っぽくもみえたし、敢行する若者たちはちょっとセンス・エリートのようにも見えた。実際、バックパッキングに向かった旅行者の多くが、帰国後、その「冒険談」をこれ見よがしに語ったりしていたのも事実だった。インドを旅したバックパッカーが「インドには時間がないんだよね」みたいなスノッブな発言をいていたのだ(キモい(^_^;)。言い換えれば、バックパッキングは、一般の若者はなかなか手が出せない、敷居の高い類いのレジャーだった。

ところが蔵前は、これとは全く異なる視線でバックパッキングし、その体験をギャグタッチでほのぼのとした絵を随所にちりばめた紀行文として発表する。蔵前のバックパッキングスタイルは、それまでのスノッブなスタイルとは対照をなす、等身大の、フツーの人間がフツーの視点で旅の経験を語るというものだったのだ。代表著『ゴーゴーアジア』『ゴーゴーインド』『ホテルアジアの眠れない夜』の文体には全く気取りがなく、自分が旅先で発見したことを率直に驚いたり、感動したり、ウンザリしたりという素朴な経験が、ある意味「素人」の目線で描かれていた。また、他の旅ライターのようなバックパッキングをディープなものとしては全く描かなかった。ドラッグや犯罪、旅する自分の内面描写、そしてものすごくトリビアな旅のエピソードなんかを、上から目線で書くというパターンが旅ライターには多かったのだ(僕は、バックパッキングを取り上げたライターとしては蔵前がいちばん文才があると評価している)。

「な~んだ、バックパッキングだからといって、何も気負う必要はないんだ」

蔵前の著書を読んで、こんなふうに思い、旅に出かけた若者は多かったはずだ。バックパッキングがカジュアルなものであると言うことを蔵前は示して見せたのだ。

そんな、蔵前が始めたのが、今回取り上げているバックパッキングの情報誌「旅行人」だった。まあ、ブームになったとはいっても、バックパッキングはニッチなレジャーであることには変わりない。だからこそ販売部数を伸ばしていった「地球の歩き方は」は途中でバックパッカーを切り捨てたわけで(こんな連中を相手にしても儲けはたかが知れているというわけだ)。「旅行人」は一般のメディアには掲載されない旅情報を満載した月刊誌として人気を博していく。96年には『旅行人ノート』というガイドブック・シリーズも開始するまでになった。ちなみに、この第一号は、なんとチベットだった。

21世紀に入り、失速

しかし21世紀に入ると、その人気は次第に低下していく。2004年からは季刊、2008年からは年上下刊と発行回数を減らされることを余儀なくされていったのだ。

旅行人に何があったのだろう?いやバックパッキングに何が起こったのだろうか?(続く)