「若者の○○離れ」について、考えている。で、今回は最終回。テレビ離れと酒離れについて考えてみよう。

テレビ離れ:コンサマトリー(消費的)側面が他メディアに分散

これも新聞と同様インターネットとカブったことで、かなりの時間を持って行かれた。さらに、テレビには新聞が敵としたインターネットの他にも敵がいる。それはケータイ、とりわけメールだ。新聞はそのメディアの性質上、インストゥルメンタルな側面、つまり「情報を入手する」といった傾向が強い。テレビももちろんそういった側面もあるけれど、むしろ強いのはコンサマトリーな側面、つまり消費、ヒマつぶしといった趣だ。で、かつては若者にとってのこういったヒマつぶしをテレビが一手に引き受けていたのだけれど、これをネットやメールに持って行かれたのだ。ネットではヒマつぶしとして情報をブラウズすること(たとえばYouTubeやYahoo!のホームページの閲覧はその典型)に、コンサマトリーな魅力がある。またソーシャルネットワークで、ネットを介した第三者の書き込みををチェックしヒマつぶしするのも同様だ。そして、さらに、これにケータイが強敵として現れる。ここでは身内とされるメンバーの間で激しく情報のやりとりというか、言葉によるヒマつぶし、メールのキャッチボールが繰り広げられる。これで、ネットとケータイに忙しい若者はテレビをあんまり見なくなってしまったというわけだ。

酒離れ:飲む酒バラバラ、酒を飲むのもたくさんの趣味のワン・オブ・ゼム

かつては大学に入れば、とりあえず居酒屋で酒を飲まされるというのが大学のしきたりだった。そう、例の「とりあえずビール」である(80年代半ば「イッキ飲み」で死者が出たことが問題視されるまでは、アルハラなんて言葉はなかった。とんねるずが「イッキ!」っていう歌をリリースしていたなんて時代だった)。ところが、いまや大学一年生がみんなで酒を飲みに行くなんてことは御法度(バレたら停学になるという時代)。僕も、新入生と食事には行くけれど、一緒に酒を飲むということは、まあ、やれなくなっている(教員が連れて行ったなんてことがバレたら懲戒)。ということは、かつて酒は「強制」だったが、いまや「任意」。そこで、飲まなくてもいいという自由が生まれ、酒を飲まなくなる若者が増える。また酒を飲むというシチュエーションにおいても、それぞれが多様化しているので、酒の種類も場やバラになる。「とりあえずビール」なんてことは、ほとんどアルハラになるわけで。カルアミルクだの、モスコミュールだのってなことになる。で、こうなると今度は「ビール離れ」ってことになってしまうわけだ。

しかし、やっぱりその一方で、酒マニアもいる。たとえば、僕のゼミ生、しかも女の子の1人は大の酒好き。卒論もビールについてだ。逆にかつてだったらお酒大好き女子大生なんてのはとんでもないやつだということになったのだけれど、今では「趣味の一つ、嗜好の一つ」となっている。そう、細分化された領域に、マニアックに「寄って」いるのだ。

さて、ここまで「若者の○○離れ」について考えてきた。でも、よーく考えてみると、こういった設定、実は間違っていることがわかる。ここまで「離れ」は「寄り」とのコントラストによって感じられる相対的感覚だと指摘しておいた。そして、嗜好の多様化によって、それぞれが異なった好みや傾向を持つようになり、関心領域が分散化し、それが結果として「○○離れ」に見えるとも指摘しておいた。

でも、この情報による価値観の多様化という現象は、なにも若者に限られたことではない。つまり、日本人の多くがこういった傾向を持つようになっているわけで。ということは「若者の○○離れ」ではなく「日本人の○○離れ」というのが正しいということになる。そう、あなたも「○○離れ」しているのだ。ただし、当の本人であるあなたはそんなこと、つまり「○○から離れた」なんて