いろんな若者の○○離れ

最近若者の「○○離れ」という言葉が、あっちこっちで用いられている。クルマ離れ、バイク離れ、洋画離れ、酒離れ、旅行離れ、読書離れ、新聞離れ、英語離れ、テレビ離れ……とにかく、メディア上では若者は「離れる」のが好きらしい。

で、実際データを見てみても、この「離れ」は確かのように見える。僕の周りの学生でも、クルマやバイクに関心あるやつなんかほとんどいないし(バイクの売り上げは激減している)、以前みたいにコンパで酒をガンガン飲むのも減ったし(乾杯は“とりあえずビール”なんて時代は終わった。カルアミルクだとかモスコミュールだとか、とにかく多くてもうわけわからん)、本を読んでいる様子もないし(本も売り上げが落ちている)、英語なんかパッパラパーだし(留学者もバンバン減って、留学を斡旋する会社がドンドンつぶれたりしている)、海外旅行なんかしてないし(二十代の女性の海外旅行数は90年代の三割程度まで落ち込んでいる。旅行情報誌AB-ROADも休刊して久しいl(ネット上には、あります))。

「離れ」は「寄り」とセット

しかし、このモノのイイはちょっと気になる。あたりまえだが、「離れ」というのは「寄り」という言葉とセットになっている。つまりかつて「寄っていた」ものから、現在「離れた」ということなので、もともと寄ってないものは、こちらもあたりまえだが「離れた」とはいわない。ということは「○○離れ」という考え方は、あくまで相対的なもの、つまり比較の問題でしかないということになる。

クルマ離れとは

ちょっと、これらのいくつかを取り上げて考えてみる。先ず取り上げられるのがクルマだ。若者の車離れはかなり著しい。実際、今の若者はかつての若者のようにはクルマを買っていない。日産がスポーツカーのスカイランやフェアレディZを販売しているが、これを購入する層は四十代以上だ。

で、若者がクルマを購入しないのは所得が低くてクルマを購入するカネがないからとよく言われる。しかし、これはちょっとおかしい。というのも30年代、新人類と呼ばれた僕たちも、やはりカネは持っていなかったからだ。でも、無理矢理クルマを購入する連中、とりわけ男性は多かった。「無理矢理」というのは、メチャクチャなローンを組んでまで購入する「清水の舞台から飛び降りる方式」というのもあったが、その多くが「諸経費込みで二十万円」みたいな中古車を購入するというパターンがだった。だからこの時代からすれば、現在の若者は経済的な状況でクルマが買えなくなっているというのではなく、心理的に「クルマを買う気がなくなっている」ということになる。ただし、これも僕らの時代が「寄っていた」という前提で「離れている」ということでしかないのだけれど。だから、一概に「クルマを買う気にならなくなっている」と即断することはできない。

旅行離れとは

次は「若者の旅行離れ」。これは、海外に行かなくなってしまっているということなんだけど、事実これはそうだ。僕はバックパッカーの聖地=安宿街、タイ・バンコク・カオサンへ毎夏出かけているんだけれど、日本人若者の激減ぶりはめざましいものがある。カオサンで出会う日本人は、むしろかつてのバックパッカーみたいな人間が目立ちはじめている。つまり30代以上。で、前述したように20代女性の海外旅行離れもものすごい勢いで加速している。そう、こちらもかつての「寄っていた」時代からは「離れている」というわけだ。

「離れている」というのは「寄っている」時代と比べればという話でしかない

しかし、である。これはここまでクドクド断ってきたように「寄っていた」時代と比較しているから「離れている」と見えるということを確認しておいてほしい。逆に言えば、現在の状況からすれば、かつては「離れていた」ものもたくさんある。例えばケータイやスマホ、音楽プレイヤーなんてのは、今の方がずっと「寄っている」わけで(いや、それどころか、十数年前までケータイなんて持っている人間はいなかった)。

ということは、この「○○離れ」という現象は「年寄りの立ち位置に基づいて語られている」ということになる。そして、これをもう少し社会論的に表現すれば「嗜好や行動スタイルにパラダイムシフトが生じている」と考えるのが妥当ということになるのだ。じゃあ、それは何か?(続く)