前回は民主主義=個人主義と消費社会が結びつくことで個人の意識が個別化、つまりバラバラになり、公共性に基づいた公共圏が失われた結果、社会全体のモラール=士気が失われ、まったりとした元気のない日本社会が生まれたことを指摘しておいた。また、その象徴的事態がモラル・ハザードという現象となっていることも述べておいた。で、このままじゃあいけないわけで、じゃあどうすればいいんだろうか?

趣味縁という考え方

社会学者の浅野智彦は若者の公共圏の可能性について「『趣味縁』による社会参加」という興味深い提案を行っている(『若者の気分~趣味縁からはじまる社会参加』岩波書店2011)。浅野は現状をだいたい次のように分析する。われわれは現在、親密圏の中にタコツボ・島宇宙的に閉じこもっている。自分と身内だけでしっぽりやっていて、社会全体が見えていない。つまりミーイズム、個人主義が徹底している。で、これではもちろん社会性など涵養されるわけがない。つまり親密性=親密圏の中にいる限り公共性=公共圏にはたどり着かない。そこで二つをブリッジするものとして想定されるのが「趣味縁」と呼ばれるものだという。そこで、趣味縁についてもう少し突っ込んで考えてみよう。

趣味縁とは趣味を媒介とした人間関係のことだ。趣味縁は親密性と公共性の中間にあって、双方の性質を併せ持つ。先ず親密性との関わりについて。これは趣味を媒介とすることで共有のネタが設定されるため、容易に関係性を構築することができる点で共通点がある。いきなり公共の場で見知らぬ他者と関係性を結ぶことは高い社会性が必要だが、こちらの場合は、いわば趣味という「社会性のシミュレーション」「公共圏の縮小版」的な領域が前提されるゆえ、参加・参入がしやすいのだ。

一方、公共性との関わりについては、個人的に親密な関係にある人間以外の外部の他者とも関わりが結べるというメリットがある。親密な人間同士だと、その関係はどうしても閉鎖的になりがちだ。それに比べると趣味を媒介とした関係は、結果として趣味を通じて、自らの親密圏を広げていく、言い換えれば人間関係の幅を拡大していく可能性を備えている。本来、見知らぬ他者が備えているノイズ(そのままでは受け入れがたいもの)を、趣味というショック・アブソーバーが媒介することで受け入れやすくするからだ。しかも他者の持っているノイズを吸収するという可能性も開かれる。言い換えれば、それは社会性を涵養する苗床として機能する。

さて、趣味縁は情報化社会、インターネット(とりわけSNS)が発達した現在では、そこにたどり着くことが極めて容易になっている。つまり趣味縁はストレスなく参加が可能なのだ。そして、この趣味縁で「徒党を組む」という行為を行うことで、それが結果といて社会参加となり、さらにはこういった趣味縁に基づく「新しい公共圏」が成立する可能性がある。

趣味縁は若者に限った話ではない

浅野の議論は島宇宙・タコツボ化し、社会性を失っている若者たちに対する公共性=公共圏成立の可能性を考察したものだが、ぼくは、これはなにも若者だけに限られたことではないと考える。つまり、いまやこういった事態は日本人全体に浸透しているのではないか。というのも島宇宙・タコツボ化する人間とはオタクのことを指しているからだ。で、オタクという言葉が生まれたのが83年。世間一般に知れ渡るようになったのが89年。ということはオタクは新人類世代よりちょっと前あたりからはじまっているわけで、オタクはすでに50代に達している。ということは、これらから下の世代はすべからくオタクである。いやいや、それだけじゃあ、ない。もう日本はとっくにオタク文化、オタク社会になっていて全世代がこういった島宇宙・タコツボ化した心性を備えているはずだ。つまり老人もまたオタクなのだ。社会学的に言うと、オタクという心性は社会的性格=社会全体の構成員が何らかのかたちで共有する性格になっている。

こういった前提が正しいとすれば、浅野の趣味縁という議論はもっと可能性を秘めていることになる。つまり、趣味縁を通じての社会参加という方法を見いだせば、若年層から老人層まで全てが社会参加し、そこに「新しい公共圏」が生み出される可能性があるのだ。

もし若者だけに趣味縁を通じての社会参加を促すだけであるのならば、それはただただ単に世代の問題の域を出ない。ところが、これが成人層、老人層にも適用されるのならば、これは日本の経済の問題に転じていく可能性がある。なぜか?それは、こういった公共圏が構成されるならば、日本経済の復活が可能になるからだ。でも、どうして(続く)