モラル・ハザードの必然

公共圏の崩壊が叫ばれて久しい。たとえばモラル・ハザードと言った現象はその典型だ。ゴミのポイ捨て、電車でのケータイ使用、優先席の若者の使用、違法駐輪、道路交通法の無視なんてのはもはや日常的な風景。誰もが私的な領域に首を突っ込み、マナー、モラル、常識といったものに目を向けなくなってきている。「周囲以外はみな風景」とう状況がデフォルト化しつつあるのだ(半面「周囲」の範囲には異常に気をつかう)。

こうなった原因は民主主義=個人主義と消費社会が奇妙な癒着を起こしたことに基づいている。民主主義=個人主義は個人の自由、人権尊重を旨とする。そして本来なら社会はこういった理念を”相互に重視”し遵守する人々によって形成される。ところが、これらと消費がむすびつくと、自由は相手のことを無視した「個人的な欲望の自由」へと代わる。自由だから何をやっても構わないということになったのだ。そしてそういった欲望の実現を遮るような行為は「人権尊重」という理念によって「人権蹂躙」とみなされる排除されるようになっていった。

私>公のデフォルト化

で、これによって公共圏を形成する公共性はむしろ否定されるべきものになってしまった。というのも、消費社会は「金儲け」が基本。そこで資本側は「民主主義=個人主義の理念」を錦の御旗に、個人の欲望を最大化させるような商品を提供した。言い換えれば「公」より「私」を重視する感覚を助長した。その結果、個人の欲望だけが異常に肥大し、その一方で、公共性はそれを疎外する要因の一つと位置づけられてしまったのだ。

公共性というのは他者を前提とし、他者を尊重しつつ個人個人が調和を図ることによって成立するもの。ところが、消費社会と民主主義=個人主義の結婚は、個人の欲望>公共性という力関係を設定してしまう。二つはもともと相反する位置に置かれているものでもあるからだ。つまり個人の欲望を最大化する際には、それを妨げる公共性は邪魔。一方、公共性を重んじるなら個人の欲望はある程度抑制されなければならない。

そして、資本が支持したのは言うまでもなく前者の方だった。その結果、われわれは個人の欲望を最大化するための商品を次々と入手し、個人レベルでは快適な生活を実現した。だがその一方で、公共性が衰退した結果、それぞれがミーイズム=個人の欲望を社会の利益に優先させる心性が助長され、人々は原子化していった。その象徴的な現象がモラルハザードというものだったのだ。

「私」肥大がもたらした副作用

しかしながら、こういった消費による個人の欲望の最大化は、翻って個人に副作用をもたらしている。それは相互における信頼感の欠如と孤独だ。1億3000万人もの人間が生活しながら、それぞれはバラバラに生きていると言う状態が出現。そしてこういった心性がデフォルトとなったときに生まれたのが”社会全体のモチベーションの衰退”だ。誰もが自分のことしか、あるいはごく小さな自分の周辺のことしか考えないため、社会全体が見えなくなってしまった。あるいは社会に対する意識が欠如するようになってしまった。そう、”無気力なまったりとした社会”が出現したのである。

そういったモラールの衰退は、翻って社会の勢いをなくし、現在の日本社会の停滞状況を作り上げていると考えてよいだろう。

じゃあ、どうすればいい?

しかし、あたりまえの話だが、このままじゃあヤバい。日本社会が元気を取り戻さない限り、これから日本はズルズルとこれまで以上に衰退をつづめていくことは必定だ。何か、人々のやる気、社会性、公共性を復活させるような方法がないだろうか。いいかえれば公共性に基づいた公共圏という空間を再構築する方法はないのだろうか?

今回はミーイズムと公共圏をつなげるアイデアとして社会学者・浅野智彦の「趣味縁」という言葉をヒントに考えてみたい。個人の欲望と公共を結びつける手段として「趣味」がそのメディアとなるという考え方なのだが……(続く)