社会システムははコミュニケーションと心的システムから構成される:方法論的関係主義の視点

情報は伝わらない、またコミュニケーションにおいて人間は情報を伝え合っていない。ただ相互に刺激を与えているだけ。だがそういったコミュニケーションが個人と社会という単位を成立させている。

こういったルーマンの考え方は社会システムと心的システム=意識システムが、社会や個人といった単位に還元されることなく、それぞれがコミュニケーションを媒介に社会全体を構成する二側面として成立していることを示している。しかも、参加している心的システム間での情報のインプット、アウトプットが全くないままにこれが成立しているのである。

換言すれば、これは方法論的集団主義(集団があって個人が成立する)にも方法論的個人主義(個人が集まって社会が成立する)にも還元されない、徹底した方法論的関係主義(コミュニケーションによって子じっと社会は同時に成立する)であり、社会理論のコペルニクス的転回と言っても過言ではないだろう。つまり社会システムではその最小構成単位としてコミュニケーションが必要とされるが、そのコミュニケーション・システムが結果として心的システムを稼働させ、また心的システムがコミュニケーション・システムを稼働させることで社会システム全体が作動する。すべては同じ社会システムの諸側面でしかなく、どの側面を欠落させても社会システムが成立することはないのである。

別の側面からこれを説明してみよう。心的システムが社会に何かを投げかける際には、それが閉鎖的な個人の欲望に基づいていたとしても、結果としてそれが刺激として機能することでコミュニケーションを発生させ、社会システムを稼働させる。またコミュニケーションは心的システムとは関わりなく作動するが、それは結果としてコミュニケーションに関わる心的システムを作動させる。こういった構造的カップリングが、結果として心的システムの中に意味を媒介とした思考といったプロセスを再生産させ続けるのだ。

情報は伝わらないがゆえにコミュニケーションが発生し、そして社会が成立する

ということは、もし仮に生身の他者とのコミュニケーションが寸断された状況に心的システムが置かれてしまえば、それは心的システムを稼働させる機会を著しく損なうと言うことでもある。もちろん、そこに生身の他者が存在しなくてもコミュニケーションは可能ではある。たとえば文献を読む、一人で物思いに耽るというのも社会システム、つまりコミュニケーションと心的システムが作動している状態だ。前者の場合は”文献という他者”、後者の場合は”自己という他者”とヴァーチャルな他者とコミュニケーションを行っているということになるからだ。

だが、思考の誘発という点、つまり現実性=複雑性を不断に産出する刺激となるという点では、予測がつきづらい生身の他者の方が費用対効果的にははるかに効果的(予期せぬ刺激を頻発する)であり、それゆえにこそわれわれは他者を必要とする。これによって人々は必然的に心的システムとコミュニケーションを活発に稼働させる。すなわち意味=思考を求め、また他者に刺激を与え続けることが宿命となる。だが、結果として、それが社会システムからなる社会を構築し続けるエンジンとして機能しているのだ。だからこそ他者は絶対に必要な存在なのだ。

ルーマンのコミュニケーションは人間が社会的動物であること、意味を産出する生物であること、還元すれば社会を成立させ、さらに意味を欲する生物であることの必然性を理論的に実証している。これは、これまでの伝達といった、機械的な情報伝達(アエロポエティック)を敷衍するかたちで展開されてきたコミュニケーション論の限界を乗り越えるものだ。

「伝わらないからコミュニケーションが起こる」という考え方。ものすごくリアルなものに思えないだろうか?