構造的カップリング

前回は童謡『やぎさんゆうびん』を例にとって、社会学者N.ルーマンのテーゼ「情報が伝わらないがゆえにコミュニケーションが発生する」という状況を説明しておいた。

ルーマンは、こういった、社会システム=コミュニケーションと心的システムが関連しあうことは無いが、心的システムと心的システム(つまり意識と意識)、コミュニケーションと心的システムが互いのシステムを稼働させるための刺激となって稼働する状況を「構造的カップリング」と呼んでいる。つまり心的システムが作動すると、それが結果として相手に対して刺激を誘発し、相手側の心的システムが作動する。さらにこの作動が、発信者の心的システムの作動を誘発する。そして、この時こそがコミュニケーションが発生している状況なのだ。

なぜわれわれはコミュニケーションを行うのか

しかし、心的システムをなぜ作動するのだろうか。これについてルーマンは「意味」という概念を持ちだす。 意味とは「現実性と可能性との区別を不断に再編成し、継続的に可能性を現実化すること」と定義される。でも、これじゃ、ちょいとわかりにくいので、これを心的システムを構成する意識システムの視点(要するに意識と意味の関係)から考えてみよう。

意識するとは思考すること

われわれがある事象を思考するとき、それは何らの事象についての意識が働いている状態だ。つまり何かを考えているときには、その思考する事象を対象化=イメージしている(たとえば「自己について考える」場合、われわれは自分の頭の中に「自己イメージ」を思い浮かべる。つまり、この時、われわれは自分自身を対象化しているわけだ)。ただし、事象が意識化=対象化するというのは、何らかの問題状況が発生した時に限定される。ある事象について、それが予定通りに展開しているのならば、その事象が意識に上がってくることはない。たとえばキーボードをミスタイプしてしまった瞬間のことを考えてみよう。ブラインドタッチになれている人間なら、タイプの誤りをディスプレイを見ながら発見するのではなく、むしろ打鍵した指の違和感がフィードバックされてくるはずだ。この時、われわれは「おやっ?」と、そのミスタイプした指の感覚が意識化されるのだ。言い換えれば、通常どおりキーを入力している文には、打鍵している指先はさながら透明なメディアとして機能しており、入力している本人は入力するディスプレイと思い巡らせている内容に集中していて、指先のことなどまったく意識されない。言い換えれば意識化と問題状況の出現は同時ということを逆照射する。

そして、この問題状況の出現=意識化は、既存の処理方法では対処できなかったという「現実性」を心的システムに投げかけてくる。すなわち状況に対する複雑性が出現し、心的システムが不安定になるのだ。当然これに対処する必要が出てくるわけで、心的システムはこの現実性=複雑性を縮減するために、対処するためのさまざまな可能性の中からひとつを選択することで、事象を単純化、換言すれば安定化した状態に戻そうとする。そしてこれが成功すれば再びこれら事象は無意識となる。こういった現実性ー可能性のプロセスこそが思考なのだ。

おさらいをしておこう。意識が心的システムに上がってくるときは、それは日常の自動的に進行している行動パターンからズレた結果が生じたときだ。但しそのズレは何らかのかたちで修正されなければ平常状態に戻れない。そこで、頭の中で現在発生した問題状況をフィードバックし、さらに問題状況が発生していなければ普段はどのような行動パターンをとっているかをフィードバックし、二つを比較し統合することで、新しい行動パターンが決定される。これがいわば心的システム=意識における思考の流れなのだ。

ただし、思考は現実性-可能性のプロセスそれ自体で閉じているわけではない。こういったサイクルが再び次の問題状況を出現させ複雑性を露呈させる。そして、さらにこれを安定化させようというサイクル、すなわち思考が継続する。それがコミュニケーションであり、さらにその先に社会システムが作動し始めるのだ。

個人ーコミュニケーション-社会、それぞれを個別には扱えない!

このサイクルを誘発させるものこそ社会システム=コミュニケーションに他ならない。つまり心的システムが処理(=複雑性を単純化させること)した事象に基づいて行動を起こせば、それが相手の心的システムにとっては刺激として誘発される。そして、その刺激が相手の心的システムに問題状況を出現させ、今度は相手の心的システム内で意味を求めて思考が繰り広げられるのである。そしてまた処理された事象に基づいて行動を起こすことで、こんどは発信者の心的システムの稼働を誘発する刺激となるのである。

でも、こういった視点を採ると社会学的にも新しいものの見方が見えてくる。これまでの個人ーコミュニケーション-社会といった図式をそれぞれバラバラに捉える、既存の社会学的図式が否定されてしまうのだ。つまり「情報は伝わらない」というテーゼは社会学の立ち位置の根本的変更を要請するテーゼでもある。ではどう考えられるのだろうか?(続く)