コミュニケーションも擬制である:『山羊さんゆうびん』でのコミュニケーションを例に

社会学者N.ルーマンは情報は伝わらないというテーゼに基づいていコミュニケーション論を展開している。

そしてルーマンは、オートポイエーシスという考えを社会システムにまで発展させる。ここで社会システムは、その最小構成単位としてコミュニケーションを設定しているのだけれど、オートポイエーシスに基づけば、必然的にコミュニケーションもまた擬制、すなわちコミュニケーションを行う相互間で情報は伝達されていないことになる。ちょいとややこしいので、これもエピソードを用いて展開してみよう。引用するのはなぜか童謡の『山羊さんゆうびん』(まどみちお作詞、団伊玖磨作曲)である。

白やぎさんから お手紙 ついた
黒やぎさんたら 読まずに 食べた
しかたがないので お手紙書いた
さっきの 手紙の ご用事 なあに

 黒やぎさんから お手紙 ついた
白やぎさんたら 読まずに 食べた
しかたがないので お手紙書いた
さっきの 手紙の ご用事 なあに

歌詞は二番までだが、二番が一番に回帰するようになっている、つまりこの歌は延々と続くことが前提されていることは明らかだ。そして、白山羊さんと黒山羊さんは手紙を読まずに食べ続けることで、二頭は永遠に手紙のやりとりを続けることになる。さて、この歌詞の最も重要な点・キモは「ご用事」、つまり伝達情報を読まない(あるいは食べてしまうので「読めない」)ということで、かえってこういった手紙のやりとりが可能なことだ。いいかえれば、情報が伝達されないゆえにコミュニケーションが永続するというシステムなのだ。

「山羊さんゆうびん」は、まさにルーマンのコミュニケーションそのものだ。二頭はそれぞれオートポイエティックな心的システムを備えている。そして白山羊さんは自らの情報a=ご用事を生産し、これをコミュニケーションの場で伝達しようとする。しかし心的システムは閉じたシステムゆえ、互いに心的システム内部の情報の授受を行うことは出来ない。つまり、情報a=ご用事が黒山羊さんに伝達されることはない。

「お手紙を書く」という行為がそれぞれの活動を促す刺激となる

ただし、ここでは「お手紙書いた」という行動が相手の心的システム稼働を誘発させる刺激として機能していることがわかる。白やぎさんからお手紙をもらった黒山羊さんは、読まずに食べてしまったので「白山羊さんは何を伝えたかったのだろう?」と思考が心的システムのなかで作動する。そして、その「ご用事」を確認したいがゆえに、黒やぎさんは白やぎさんに手紙を送るという行動を行うのである。すると、今度はこの黒山羊さんの行動が刺激として白山羊さんの心的システム=思考を誘発し、オートポイエティックに白山羊さんの中に情報を生成させていくことになる。あとはその繰り返しということになるのだが、二頭はお手紙を読まずに食べ続ける限り、言い換えれば情報が伝わらない限りにおいて、相互に刺激を発し、そして志向を誘発する。つまり、コミュニケーションを続けることが可能になるのである。前回の「愛している」という言葉をめぐっての例に立ち返れば、このように、相互の愛の意味が全く異なっていたとしても、それによって互いの活動を刺激し、さらに欲望(男性における性的充足と女性における空間の共有)が充足される限りにおいて、「愛している」というささやきは伝達されているとみなされる。いいかえれば伝達が擬制されている。逆にもし、この時、心的システムが二人の間で伝達されていたとしたら、つまり『山羊さんゆうびん』のご用事が相互に伝わるということになったら、それは、互いに全くの誤解であることが判明すると同時に、コミュニケーションという行為自体もまた収束ことになる。そして、おそらく二人は別れることになるだろう。

このことをルーマンは「人間はコミュニケートすることはできない。コミュニケーションだけがコミュニケートしうる」と表現している。

これを、ざっくりとまとめてしまえば、コミュニケーションとは「互いに勘違いを続けること。そしてその勘違いを充足させようとアタマをめぐらせる(=思考)すること。さらに、それによって発せられた行為が相手にとっての刺激になって、さらなる勘違いを誘発させること」ということになる。しかし、それは二人のコミュニケーションを観察している第三者の視点からすれば、あたかも情報を交換しているかのように見えるのだ。(続く)