イメージ 1



イメージ 2




人間におけるオートポイエーシス

社会学者N.ルーマンはマトゥラーナとバレラのオートポイエーシスという考えを人間にも援用し、「コミュニケーションとは伝わらないこと」という、一見すると首を傾げたくなるような議論を展開している。しかし、このコミュニケーション=伝えることという常識をひっくり返す発想が、コミュニケーションに対する考え方にコペルニクス的転回を与えることになるのだ。

ルーマンは言う。人間も同じように情報を外界からインプットし、アウトプットしているのではなく、オートポイエティックに情報を自律的に生成していると。ただし一般の生命システムとは異なり、人間は「意識と無意識からなる心的システム」を所有し、思考を繰り返している。

「愛している」という言葉は伝わらないが、互いが「愛」を実感している

これをエピソードを例に説明してみよう。恋人同士がささやいた。「愛していよ」「愛しているわ」。ささやき合う二人はそれぞれ「愛している」という言葉をささやくことで、自らの愛を伝達していることを確信しているし、相互の愛を意識している。しかし、その際、「愛」とは何を意味しているのだろう。たとえば男性にとっては「愛している」という言葉が意味するところは、これによって相手の女性と性的関係を継続的に維持できることを保証するものとする。そして、これはさしあたり無意識にある欲望とする。一方、女性にとっては、相手との会話や時間を共有することを保証するものとする。そしてこれも同様に無意識にある欲望とする。しかし、こういったそれぞれの意図を互いが知ることはない(当人たちも意識に上がってこないので、この欲望は潜在するだけだし、本人たちも知らないので伝えようともしていない)。だが、このように「愛」という言葉に求めるものが全く違っていたとしても、それによって男性の側は性的欲望が充足され、一方、女性の側は相手と共有する時間を確保されれば、それぞれ「愛している」という言葉の意味が充足される。つまり、「愛」という言葉は互いの心的システムの作動を刺激するが、個々の心的システムはオートポイエティックに愛の意味を産出し続けていて、しかも異なっている。情報のインプット、アウトプットは外部に対して閉じているのだ。

でも、それじゃあコミュニケーションなんか発生しないのでは?(続く)