N.ルーマンの逆転的発想~”情報は伝わらない”という前提

社会学者N.ルーマンは八十年代、これまでと一線を画するコミュニケーション論を世に問うている。それまでコミュニケーション論と言えばC.シャノンとW.ウィーバーの情報モデルに基づいていた。これは、情報が送信者から受信者に伝達される際、その情報内容がどのように伝えられるかについて視点を当てたものだった。そして、その際、目標とされたのが「情報伝達の正確性」、つまり送信者の情報aが受信者に情報a‘として伝達されたときに、いかにすればa=a‘となるかということだった。

このようなプロセスは機械工学ではその伝達技術をアナログからデジタルに切り替えることで達成可能となった。たとえば、音楽観賞用の記録媒体を取り上げてみよう。かつてはレコードかテープレコーダーがメディアとして用いられていたが、これらには全てノイズが存在しいてた。ところが、デジタル化することによってノイズはゼロとなる。iPodで音楽を聴く際には、何も音のないところから突然音楽が始まり、コンピューターに取り込んだりCDに焼いたりしたデータは何度コピーしても情報が劣化することがなくなったのだ。

だったら、人間のコミュニケーションもまたデジタル化を目指せばよいということになるのだが、ルーマンは人間と機械のコミュニケーションは根本的に異なっていると指摘する。その際、最も刺激的だったその主張は「情報は伝わらない」という、逆転的な発想だった。コミュニケーションにおいて、人間はなんら情報を伝え合っているのではないというのである。いや、さらに進んで、ルーマンはそもそも人間も生物も情報交換など行っていないと言う。ではわれわれはコミュニケーション上で何を行っているのだろうか。

オートポイエーシス

ルーマンは自らのコミュニケーションを展開するにあたって、チリの神経生理学者マトゥラーナとバレラのオートポイエーシスという考えを持ちだす。生物は全て外部に対して情報のインプットアウトプットを行っていない閉鎖的な存在で、常にその内部で情報を自己準拠(auto)的に産出し(poietic)続けている生命システムであるというのだ。

生物のオートポイエーシス:情報は生物が決定している

それゆえ生物にとって情報は生物の外部から内部へ伝達されてくるのではなく、内部で自律的に生成される。
つまり、こうだ。生物の外部で何かの変化が起きたとする。その変化に対して生物が反応を示した場合、その反応という活動それ自体が情報となる。外部の変化は反応を誘発する刺激=キューに過ぎない。ただし、第三者から見れば、それはさながら反応を示すことになるきっかけとなった刺激が外部があたかも情報と思える。しかし、生物が情報としているものと、外部の指し示すもの=環境は何ら関連性を持たない。たとえば蚊が動物から吸血する際、蚊にとっての有意味な情報とは、主として二酸化炭素だ。その対象が二酸化炭素を発していれば、それは蚊のオートポイエーシスにとって有意味な情報となり、二酸化炭素の発生源に近づいていく。対象の種類、美醜、大きさいったものは反応すべきもの=有意味なものとはされないので、それはまったく情報の対象外、つまり情報ではない。それゆえ、たとえば、蚊のいるところにドライアイスを置けば、蚊はこれに近づいていき、接触した瞬間凍り付いて死んでしまう。ドライアイスは二酸化炭素の個体だからである。蚊にとって有意味な情報とは、二酸化炭素を発している個体=対象ではなく二酸化炭素それ自体なのだ。言い換えれば、情報は生物の側がはじめから決定しているのであって、外部の対象はその情報を生命システムに発生させるための刺激=触媒的機能を果たしているに過ぎない。

そして、ルーマンは人間もまた同じ有機体としてオートポイエーシスに基づいて活動を行っているというのだ。(続く)