非日常を非日常として楽しむことがバックパッキング

Facebookを使って世界を縦横無尽に渡り歩くバックパッカーと、同じようにFacebookを使いながら日本とのコミュニケーションをひたすらとり続けるバックパッカー。バックパッカーにはこういった情報格差ならぬ行動格差?があること(もちろん情報格差でもある)。ただし、どちらも場合によってはバックパッキング、そして旅という行為からはかけ離れたものになってしまう恐れがあることを前回は指摘しておいた。

もちろん、旅の目的は人それぞれ。だからいろんなスタイルがあってもいいと思う。しかし、僕はバックパッキングをやるなら、これだけは念頭に置いて欲しいと思っていることがある(あくまで、私見です)。それは、

「非日常を非日常として経験する勇気を持つこと」

つまり、自分が日本で培ってきたモノの見方についてのステレオタイプ=色眼鏡を異化し、対象化した視点からものを見る機会としてバックパッキングを利用して欲しいと思うのだ。もうすこし簡単に表現すれば「日常採っている立ち位置を捨ててみる手段としてバックパッキングを用いる」ということになろうか。訳のわからない食べ物に手を出してみること(お腹を壊すのは必要経費と考える。ただし、その対処法は万全の準備を整える。最低抗生物質くらいは買っておく(タイならその辺で処方箋なしで購入できる))、いろんな人間(日本人、外国人バックパッカー、現地人を問わず)と関わってみること、異文化の日本とは違うところに好奇心を抱いてみること、ガイドブックや地図にない地域に足を踏み入れてみること、そして時にはゲストハウスの部屋で孤独になりながら自分の人生を振り返ってみること。こんな「(自分の外部、そして内部の) 未知のものとの遭遇」こそ、バックパッキングの醍醐味なのだから。Facebookはそのための格好のツールにも、最悪のツールにもなり得る。それは旅の情報集めであろうと、日本の環境に向けた情報アクセスであろうと変わらない。要は、それを利用するバックパッカーをやっているあなた次第なのだ。

実は非日常は、どこにでも転がっている

ちなみに、そう考えれば日本という日常でも非日常を持ち込み、そこで自らを異化し、新たな経験をすることも十分可能ということでもある。

僕のバックパッカー歴の中で、バックパッキングが教えてくれたことは

「非日常は、どこにでもある。もちろん日本でも、そして身近な日常生活の中ですらも」

というものだった。

これは旅を続けるうちに、だんだん何も感じなくなっていったことで気がついたことだ。つまり、バックパッキングははじめた頃は、いろんなものとの出会いがとにかく新鮮で面白くってしょうがなかったのだけれど、だんだんとやり方に慣れていくとと、そういった驚き、新鮮みがなくなっていく。だからどんどんディープな、旅行者が訪れそうもないところを目指すようになるのだけれど、その新鮮さゲットのための費用対効果はどんどん下がっていく。そんなとき「何もバックパッキングを非日常として特化することはないんじゃないか?そう考えている自分の立ち位置こそが日常的なものに取り付かれているだけなんじゃないか?バックパッキングは実は単なる現実逃避なんでは?」と考えるようになったのだ。

つまり”様々な対象や環境に対して新たな立ち位置で見ようとすることはどんなモノ・コトに対しても可能”ということをバックパッキングは教えてくれたのだ。

ただし、若い頃はそのことがよくわからない。とりあえず手っ取り早く立ち位置を変える方法としてバックパッキングは便利なツール。だから、とりあえずバックパッキングに出かける。それでいいんじゃないんだろうか?

Facebook、そしてインターネットを旅のステキな道具として使ってもらうことを願ってやまない。