国民を計量的に扱うことが難しくなってきた

中国高速鉄道事故の波紋について考えている。

前回は、西欧近代国家とは異なり、中国が国民を個人としては捉えず、「ロット」「目方」「一山」として計量的に考えることで、それが結果として「最大多数の最大幸福」の状況をもたらしてきたこと。そして、実際、個人より国家の利益を重視した方が、結果として国民全体の利益になるという「費用対効果戦略」が中国をGNP世界第二位の経済大国に押し上げることに成功してきたことを指摘しておいた。だか、この中国の「伝統的」な政策、そろそろ通用しなくなりつつある。また、中国政府自体もこれに気づきつつある。そして、そのことを如実に語っているのが今回の高速鉄道事故と考えられるだろう。

「なかったこと」にしてきた

今回、事故の対応について、国民から政府への大きな批判が浴びせられている。彼らの批判のスタンスは、僕らの立ち位置と同じ「人権蹂躙」というそれだ。ネットでも事故を巡っては批判が巻き起こっているし、中国電視台のニュースでは、なんと女性アナウンサーがアドリブで涙を流しながら政府を批判してしまうという事態まで発生した。かつて、中国ではこんなふうに議論が巻き起こると言うことは決してなかったし、起こった瞬間、政府が押しつぶして「なかったこと」にしてきた。

「なかったこと」にはできなくなってしまった

そして、これに従って政府の対応も変化を見せつつあるのだ。これまでのように「なかったこと」とか「もう済んだこと」として、知らぬ存ぜぬを決め込むというふうには、ならなくなっている。あるいは隠蔽することも難しくなっている(かつて世界で一番安全な航空会社は中国民航と呼ばれていた。というのも墜落事故が一回もなかったからだ。ツポレフやイリューシンというボロボロのソビエト製旅客機を使っていたにもかかわらず……もちろん、そんなことはありえないわけで、実は、飛行機事故の全てが隠蔽されていたから、こうなったに過ぎなかったのだ)。具体的には、当初、落雷のせいで済ましていたのが、シグナルのミスと言い換えたり(でも、これもおかしい。日本の新幹線でシグナルのミスなんてのはあり得ないのだから。ATC=自動列車制御装置が作動する。これはもちろん中国の高速鉄道にも使用されているはずで、そういった意味では鉄道側の責任を認めるところまでは来ていても、その本当の原因はまだ隠蔽されたままだ)、埋めてしまった列車の先頭部分を掘り返して運んだり。つまり、かつてのそれとは異なり、どうも、あの強気のはずの政府が弱腰になっている。でも、これはある意味、自らが推進してきた政策の必然的結果と捉えなければならない。

改革・開放政策が開けてしまったパンドラの箱

中国は?眷小平の改革・開放政策の下、80年代後半より民主化、資本主義化を徐々に推進してきた。そして、その結果、人々は産業を興し、世界に対抗できる技術力を獲得(もちろん人件費の安さがウリではあるが)、そして人々は豊かになっていった。だが豊かになっていくと言うことは、消費生活を助長すると言うことでもある。そして、消費生活の基本は「個人の欲望の助長すること」。だから社会主義から資本主義へのソフト・ランディングは、国民たちに「個人であること」「個人主義がよいこと」という感覚を消費生活と共に浸透させていくことになる。それは必然的な結果として、人間をロットとして計量的に扱う政府のやり方への嫌悪へと繋がっていく。

そして、これに情報化社会のうねりが援護射撃する。つまり、インターネットに接続することで、世界へ向けて消費欲望が芽生え、またそれと同時に資本主義社会のライフスタイルというものの正当性を実感するようになる。つまり、社会主義を豊穣化させるための改革・開放政策は、結果として資本主義・個人主義というパンドラの箱を開いてしまったのだ。

こうなると、人権に対する意識が中国人の意識の中に明確に芽生えてくる。そして、もう、それを押さえ込むことは出来ない。従って、今回のような「人を人とも思わぬような最大大多数の最大幸福政策」は受け入れがたいものとなっていったのだ。

いや、この政策を続けられない理由は、まだほかにもある。それは何か?(続く)