国際的に非難を浴びる高速鉄道事故

中国高速鉄道が追突事故を起こし、多くの死傷者を出した。このことについては、メディアで大きく扱われているので、どなたもご存じだろう。そして、この事故については中国政府の方針に対する批判が、海外から多く寄せられている。

ひとつは性急な高速鉄道網の開発と運営について。つまり、ちゃんとした安全確保をしないうちに、どんどんと鉄道網を広げていること、そして事故後の処理の杜撰さへの批判だ。とりわけメディアのやり玉に挙がっているのが、事故直後に、車両の先頭部分をとっとと地中に埋めてしまい、早々に運転を再開させたこと。つまり、原因究明がなされていないのに、何もなかったかのように済まそうとしていることについて、多くの非難が寄せられているのだ。

そしてもう一つは、人名についての取り扱いのひどさ、ようするに「人権無視」の姿勢だ。先頭部分を地中に埋めるなんてことを優先させたために、人命救助とか遺体の処理が後手に回ってしまったとか、遺族に対して鉄道事故で出される規定の三倍もの補償金(600万程度)を出したりとか、早期に手続きした遺族や被害者にたいしてはボーナスを付けたりとか、とにかく事故隠蔽のために人を人とも思わぬ対応を行っている。これがやはり批判の的になっているのだ。

で、この論調に同意することは簡単だ。でも、それじゃあ、この事件のメディア論的視座からの相対化はできない。そこで、今回は逆に「こういった中国政府の対応は正しい」という前提で考察を進めてみよう。そうすると、中国の立ち位置が見えてくるし、その一方で、正義面して批判している海外メディア(もちろん日本も含めて)の立ち位置もまた見えてくるからだ。

なぜ、中国政府の対応は「正しい」のか?

たしかに、僕らの目から見たらこの事故に対する中国政府の対応は杜撰というか、傲慢というか、横暴だ。しかし、これを中国政府の立ち位置で捉えたとき、案外、こういった対応は正当であることがわかる。しかも、それがこれまで中国が今日のような発展を遂げるに至った方針の一環として位置づけられるということも。

その確固たる方針は「費用対効果」という言葉でまとめることができるだろう。中国の国民(人民といった方が適切か?)に対する立ち位置は「計量的」。もうすこしざっくりといってしまうと「目方」「ロット」で、統計的に人間を捉えている。いいかえれば「個人」という単位は斟酌されない。

とにかく、たくさん、人が死ぬ。しかも中国人が

かつての歴史を見てみよう。第二次世界大戦後、チベットを中国政府下に置くために軍隊が派遣されたが、その際、百万人近くのチベット人が犠牲者となり、なおかつチベットの象徴であるラマ教の最高位であるダライ・ラマが国外追放されている(現在もこれは続いている)。79年の中越戦争の際には、56万もの中国軍が国境を越えて山の向こうからベトナムに攻め入ったのだけれど、この時、たった一ヶ月の間に、ものすごい数の中国兵が戦死している(中国発表6千人、ベトナム発表2万)。しかし、中国は攻め込むことに成功している。というのも、山の向こうから果てしなく中国兵が攻めてきたからだ。そう、殺しても殺しても兵隊は攻めてくるわけで。

そして天安門事件。民主化を訴え、天安門広場に集結した中国の青年エリート学生たちに中国政府は銃や戦車で対応し、数百人規模という、やはり多くの血が流れた。

さて、なんで中国政府は、こんなにも中国人民を虫けらのように扱うのだろうか?それが「費用対効果」という考え方なのだ。中国は13億5000万人の人口を抱える。これはちょうど日本の10倍にあたる。で、何かの災害が起きた場合には、中国政府の基準から人間の価値の重さを計算すれば、それは日本の十分の一ということになる。こんな単純な計算は僕ら日本人ではちょっと考えられないが、実際、中国政府にはこんな認識で人民を扱ってきた歴史がある。天安門事件の時、大量の血が流されたときにも、政府が発した言葉は「中国は13億人の人口があるのだ」だった。ということは、くどいようだが政府的には、中国人民の人命の重さは、日本政府が人の命を重んじることの十分の一でいいわけで、今回高速鉄道事故で亡くなった35人という数字は、中国政府の感覚では事故で3.5人が亡くなった程度でしかない。つまり、国家的には大した事故として扱うには値しないのだ。そ

「最大多数の最大幸福」という原則を遵守している中国政府

で、むしろ人命のことより、高速鉄道網の開発を一層推進し、申し訳ないが人命に目をつぶった方が、中国という国家が発展するための費用対効果としてはプラスということになる。実際、中国は個々の国民をないがしろにしつつ、国家の繁栄を推進してきた。もちろん、中国政府が「国民などどうでもいい」と思っているわけではない。これは中国独自の「最大多数の最大幸福」というスタンスから導き出された方針。で、それは見事に達成している。つまりGNP世界第二位にまで上り詰める国家になったわけで、そういった視点からすれば中国政府というのは極めて一貫性に満ちた「まともな政治」をやっていると判断していいだろう。どこぞの国の政府みたいに、訳のわからん人物が首相になって一年もたたないうちにコロコロ代わっている「政治方針のダッチロール」みたいなクニャクニャしたやり方とは一線を画しているのだ。

「上から目線」の中国批判。じゃ、オマエのほうは、どうなんだ?

で、中国のこの方針を批判しているメディアや日本人は、こういった中国の立ち位置を全く斟酌することなく、ひたすらこれを批判する。それは、言い換えれば自らの立ち位置を対象化せず、絶対化、つまり神の視点化して、上から目線で批判しているに過ぎない。そしてこの「神の視点」の立ち位置とは「個人が絶対的に尊重される」というイデオロギーに他ならないのだが、これが良いのか悪いのかについては顧みることなく「所与」「あたりまえのこと」として、一方的に中国を批判している。そう、中国政府を批判する日本人やメディアは、中国政府と同じくらい傲慢なのだ。

閑話休題

と、ここまで書いてくると、そろそろ嫌中のみなさんが起こりはじめそうなので、そろそろ矛先を変えるとしましょうか。ここまでは、あくまで「中国政府の立ち位置に立って、今回の対応を正当化したら」ということと「中国政府の対応を批判している日本人、日本メディアの見落としている自分の立ち位置はどこにあるのか」ということを指摘するのが目的で展開したもの。まあ、ディベート的に考えていただきたいと思う(でも、そんなにエキセントリックにならないで、ちょっと自らを振り返って考えて欲しいとは思う)。

で、話はもう少し入り込んでくる。こういった中国政府の一貫した姿勢。どうも、そろそろ通用しなくなりつつあるようなのだ。そして、今回の事故はそのことが如実に表れたと僕は考えている。では、それは何か?(これを読んでお怒りになった方がいらっしゃったら、本ブログにコメントに批判を書くのは明日まで、ちょっとお待ちください。オチありますので(^^))。