中野収のつぶやき

イオンモールは実際の東京とは異なる”消費情報”からなるヴァーチャルな「東京イメージ」を作り上げ、これが今や日本人にとっての「東京」についてのイメージのデフォルトとなっていることを前回指摘しておいた。さて、今回は、この「東京イメージ」が僕らの生活行動パターンにどのように影響を与えているか考えてみよう。

今から15年も前のこと。僕は社会学者の故中野収さんとシンクタンクのスタッフとして活動をしていた。その一方で、僕はタイでバックパッカーのフィールドワークもはじめいた。

ある日のこと。タイ滞在を終えて、再びシンクタンクで中野さんと顔を合わせたとき、彼は妙な質問を僕に投げかけた。

中野:「タイにはコンビニが、もうあるの?」
僕:「ここ数年でセブンとか、開業しはじめてますね」
中野:「……じゃ、タイも、もう、終わりだな」

最初、僕は中野さんが何を言っているのかわからなかったのだけれど、しばらくするとピンと来た。中野さんは「規格化」という言葉に集約される社会情報化に典型的な現象がタイにまでやってきたことを語っていたのだ。

多様化と均質化の同時進行

中野さんは80年代から、情報化が促進するものとして「多様化と均質化の同時進行」という現象を指摘していた。

まず、情報化は、多くの人間に情報をアクセス可能にすることで、それぞれが個別の嗜好に基づいて情報にアクセスするようになるため、必然的にそれぞれの好みを個別化させる。たとえば、音楽にとっての嗜好はその典型だ。

かつてであったならば、音楽は若者が一時期麻疹のように関心を持つもので、しかも、その志向するジャンルは限定されていた。七十年代前後ならフォーク、半ばからならニューミュージックというように。ヒットチャートも一部の歌手やミュージシャンで寡占状態。当然、大ヒットがたくさん生まれた。

ところが、90年代から音楽の分野で情報化が加速する。具体的にはインターネットとiPodの普及で様々なジャンルへの音楽へのアクセスが可能となる。だが、こうなると、もう音楽に対する嗜好は完全にバラバラになってしまった。隣の人間が所有するiPodの楽曲は、自分のものとはほとんど一致しないという事態が発生したのだ。これが多様化の側面だ。いわゆる「オタク化」がこの流れの一環と言える。

だが、その一方で、巨大なレベルでの均質化も進行する。これも音楽の受容で説明すればわかりやすい。つまり、僕らは様々なジャンルの音楽をバラバラに聴くようになったが、その半面、みんなiPod(そして、それに類するデジタル・音楽プレーヤー、スマホ・ケータイ)で、音楽を聴くようになってしまったのだ。つまり、内容=コンテンツこそ異なるが、形式=フォルム=音楽受容スタイルが、みんな一緒になってしまう。

で、中野さんがタイのコンビニ出現について指摘したのが、このことだった。つまり、タイにコンビニが出来ることで、タイ人たちは誰もが膨大な商品アイテムへのアクセスが可能になったのだけれど、コンビニに行って商品を購入するというスタイルが共通化してしまった。そして、こうなることで、それまで規格化されずに各地方に独自に展開されていた独自の行動思考様式が失われ一元化してしまったのだ。ようするに、地方のアウラがコンビニによって消されてしまうことについての懸念が、中野さんの「終わりだな」という発言だったのだ。

イオンモールというのっぺらとした世界の出現

こういった規格化は、いわば”超システム”というプラットフォームの出現と言い換えることが出来るだろう。情報化はこういった超システム化をどんどん推進していく。典型的なのはインターネットで、ネット内はやはり膨大な情報が溢れているが、そこに展開されているのはアメリカナイゼーションという「アメリカイメージ」のグローバル化だ(もちろん、これも「東京イメージ」と同じで、本物のアメリカとは異なるものだけれど)。使われる言葉は英語だから、やればやれほど英語的な思考、行動様式がユーザーの身体に形式として浸透していく。しかも世界中に……

で、こうやって「東京イメージ」「アメリカイメージ」という”超システム”が世界大に展開すると……実は、世界の風景や行動パターンもまた一元化するという現象をもたらしていく。現在の中国へ行けば、そこには高層ビルが建ち並び、クルマが高速道路を走り、世界各地の料理を提供するレストランが建ち並び、人々はケータイ・スマホを手に持っている。交差点の向こうから大量のチャリンコ軍団にやってくるという「かつての風景」はもはや消滅した。テレビで映されている映像も、以前のように、よく言えば「ご当地色豊か」、悪く言えば「ダサい」ものなど、とっくになくなり、ほとんどCNNのスタジオセットや報道スタイル、MTVのクリップみたいな洗練されたものに変わっている(世界水泳・上海大会の競技場とその演出の洗練度具合を見よ!)。

それは、世界中どこへ行っても同じになってしまったということ。実際、僕も現在タイに行くときにはコンビニを利用し、ネットにアクセスし、飛行機やクルマを利用し、洗練されたサービスを提供するホテルに宿泊している。で、そこで学生の卒論指導もやっているのだが……もちろん、学生は日本にいる。何のことはないSkypeがあれば「どこでも研究室」が出現してしまうのだ。ちなみに今年三月、ポルトガルに滞在したときには、ホテルでネットを開きながら一日中東北大震災の情報を調べ、Skypeを使って電話をかけまくると言うことをやっていたわけで、これは日本にいたらやっていたであろうことと全く同じだ。言い換えれば、ポルトガルに遊びに来て感じるアウラ=旅の風情なんてのはとっくになくなってしまっている。世界は共通フォーマットによってプラットフォーム化されてしまっているのだ。

そう、もう言うまでもないが、その最たるものがローカルエリアにおけるイオンモールの跳梁、いやイオンモール的環境の跳梁に他ならない。北海道でも、東北でも、九州でも、沖縄でも、国道沿いの景色を彩るものはコンビニ、ファーストフード、ファミレス、大手電機店、大手衣料店、DIY……こんなものばかりだ。

そういえば盛岡のイオンモールに行ったとき、強烈なデジャブ感にかられたことがあったな?どこに行ったら何があるのか、初めて来た場所なのに、知っている自分がそこにいたからだ。……日本中に、そして世界中にのっぺらとした世界が出現する。しかも、そののっぺらとした世界に親しんだ人間にとっては、残念ながら「とっても快適な“のっぺら空間”」が。