一元化された価値意識

メディアによる情報が全面化し、一方で共同体の消滅によって、それを基盤としていた口コミ的な情報が衰退することで、かつてあった二枚舌による二枚腰的な対応、つまり“タテマエとホンネの使い分け”という僕らの慣習が失われてしまったことを前回は指摘しておいた。

さて、こういったメディアによって全てが薄っぺらい、一元化したスーパーフラットな環境がもたらす人々の行動の変化はどのようなものだろう……実は、それこそが被災者エゴであるし、一方的な菅首相バッシングに他ならならい。

被災者に対しては「可哀想、お気の毒」というベタなタテマエが全面化される。それによって、この状況を知った日本人は、このタテマエをホンネとして受け取らなければならいという状況になった。一方被災者の方も自分自身を「可哀想、気の毒な人間」と徹底的に思い込んでもよいという状況になった。そう、こちらも同様にタテマエのホンネ化。言い換えればタテマエの全面化になる。

そうなるとこのスーパーフラットなディスクールに基づいてメディアは同情気分をいっそう煽るし、被災者は被害者意識を助長させる。それが菅首相大バッシングになったし、総理大臣を被災者がどんなに罵倒してもよいということになってしまったのだ。

硬直化した一元的価値観から脱出すること~スーパーフラットを突き抜けて

メディアの一元的な情報によって構築されたスーパーフラットな空間と認識。その一元的な価値意識の他には受け入れることが出来ない、いや他の価値観を提示したときにはバッシングに出会うことすらある環境が構築されている(もしかしたら、今回の僕の特集に「被災民を冒涜していて、けしからん!」と怒りを感じている人間もいるかもしれない。でも、実はそういう人間こそこのスーパーフラット環境にどっぷり冒されているのだが)。しかしながら、こういった一元的意識はどう考えても不健全だ。人間はもともと複雑な存在。その複雑性を互いが身体的に許容しながら構築されているのが社会。だから僕たちは、被災者に対し「お気の毒な存在でもあるし、わがままな存在でもある」という認識を持つべきだし、またそれに対して是々非々で対応しながら、これを受け入れる心性を持たなければならない。そして、それこそが最も適切な他者に対する「寛容さ」となるはずだ。

包み隠さず正直に、全部バラしてしまうという戦略
では、スーパーフラットな社会=環境の中で、どうやったら清濁併せ持つ、あるいは表裏を共に理解するような寛容さが得られるのだろうか。

かつての共同体的な直接関係を復活するというのは、わかりやすくていいかもしれないが、それはどう見ても現実的ではない。もはや、僕たちはメディア的環境を第一次環境(生活の主要となる環境)としているからだ。いいかえれば、もう、そこにかつてのような共同体は存在しない。だから、このスーパーフラットな環境を利用しつつ、こういった「環境の複雑性」を理解するような手がかりを構築する必要がある。そして、それは結局のところ、今回、僕が被災民のエゴをバラしたように、スーパーフラットな環境の中に、この隠蔽された裏の事情も青天白日の下に晒してしまうというやり方になるだろう。つまり、表も裏もすべて表に出してしまい、事態の相対化を促していくような視点を提供する。スーパーフラットな環境の中に、これまでの一元性ではなく複雑性を持ち込んでしまうのだ。

これはボクシングで表現すれば「ノーガード戦法」、麻雀で言えば「オープンリーチ」ってなところになろうか。つまり、清濁をともに表明してしまい、代わりに、それが問題になっている土台=根本、つまり存在論的立場を共有する。そうすることで事象それ自体を結果として相対化していくような視点だ。

近代の反転

かつてマクルーハンは「近代が徹底的に突き詰められ極限にまで達してしまったとき、近代は突然反転して、かつての中世的スタイルが復活する」という旨の発言をしたことがある。この立ち位置に基づいた典型的な発想がグローバル・ヴィレッジで、近代化とメディア・テクノロジーによって都市化が進み、人々が徹底的に分断されてしまった先に、人々はメディアを使用して突然、村のような環境、しかも世界大のそれを作り始めると説いた。この図式は2010年代に入ってある種のリアリティを持って現実化しつつある。情報化によって全てのものが明らかになってしまいつつあるからだ。スーパーフラットで、さらにスーパー・トランスルーセント(超透明)という状況が生まれ、われわれは相互監視と言うより、相互に露出狂的に情報を公開し始めている。それは例えばAmazonなどのライフログ、Facebookなどのソーシャルグラフ、foursquareなどのチェックインといったシステムがどんどんと受け入れられているということに見ることが出来るだろう。人々は自らの情報を公開し、それによって恩恵を受けるという循環。まるで世界の人間が隣人となってしまうような環境が構築されつつあるのだ。そして、都合の悪いことを隠そうとしても、あっという間に他の情報回路を用いてその隠蔽部分が暴かれる。ということは、はじめから隠さず正直になってしまった方が得策ということなのだ。

こんなノーガードなスタイルを人々が共有したとき、事態の表と裏は融合し、それらに対する、相対化と寛容という認識が生まれてくる。

そう、現在のメディア一元化は、この一元化を構築しているスーパーフラットな図式を徹底し、突き抜けることで、実は生まれてくるのではないだろうか?僕はそう考えている。もし、そうであるならば、僕らは今、これまでの関わりとは全く異なる人と人の「つながり」を形成し始めつつあるということになるのだが……