マツコ・デラックスの立ち位置逆転発言

ニューハーフ・タレントたちのメディアでの社会的機能について考えている。
以前マツコ・デラックスのノーメイク・髭もじゃの写真が東スポにでかでかと掲載された際、マツコはコメントを求められて次のようにコメントしたのだ。

「まあ、これも一つのファンタジーとして捉えてくれればいいんじゃないの?」

これは実に見事な切り返しだった。このコメントでの彼女のレトリックはつぎのようになる。

1.私はマツコ・デラックスという女性である」
2.ところが、髭もじゃの男姿の写真がスクープされた
3.でも、それはマツコ・デラックスがファンタジーとして演じた姿

つまり、本来窮地に立たされる「素顔暴露」というシチュエーションで、マツコは自らの記号的存在=彼女という立場をデフォルト、言い換えれば前面に押し出し、生物学的存在=彼という立場を脇に置いてしまう逆規定を行ったのだ。もう少し簡単に言ってしまうと、本来ファンタジー=記号は「彼女」としての存在なのだが、マツコの発言は「彼」を記号、つまりファンタジーとして定義し、一方で「彼女」を実体として再定義し、この暴露によるツッコミを逆手にとって、自らのニューハーフ・タレントとしての存在をアピールしたわけだ。

なぜ、彼女たちはことばを操れるのか

ここまで見てきたようにニューハーフ・タレントは話術の点ではきわめて優れた芸を披露する。これは、やはり彼女たちが宿命として背負っている条件に由来した必然的結果と捉えることができるだろう。

彼女たちは生物学的には男である。整形して女性性器と豊満な胸を装着することは可能だが、子供を産むことは不可能だ。そして放っておけば口周りには髭が生えてくる(永久脱毛すれば別だが)。だから、常に自らが女性であることを意識し、自らに向かってそのことを働きかけなければならない。言い換えれば、それは「女性」「女性らしさ」の記号を常に自らに提示すると言うことになる。また、その一方で自らが生物学的に男性であることを徹底的に否定し続けなければならない。あるいは少なくともメディア上ではその存在を否定しなければならない。

で、こういった記号=ファンタジーとしてのアイデンティティを具現化する作業を日常的に続けることで、それが記号というものをある程度対象化=相対化して扱うスキルを身につけることを結果させたのではないだろうか。彼女たちの芸は、要するに芸と言うよりは「ゲイとして生きる」ために行っている実践と捉えることができる。つまり「記号的存在でしかない」ないという立場が、常に記号についての意識を働かせるという心性を作り上げたわけで。

トリック・スターとして視聴者のメディア・リテラシーを高めている

ということは彼女たちをコメンテーターとして起用することは、記号を弄したメディアの異化作用という側面からすれば、きわめて理に叶った方法と言うことになるだろう。いわば、社会的常識に脱臼=膝かっくんを入れるトリック・スターとしてのニューハーフたち。ある意味、彼女たちはメディア上でメディア・リテラシー教育をオーディエンスに向かって実践してくれる格好のメディア論教師であると言える。その出番は今後とも広がっていくのでは無かろうか。