タイガーマスクが全国各地に登場

群馬の児童施設に伊達直人と名乗り、実際の名を伏せている人間からのランドセルがクリスマス・プレゼントとして贈られてからというもの、全国各地の児童施設に伊達直人名の様々な贈り物が届けられるようになった。伊達直人とはいうまでもなく梶原一輝原作のマンガ「タイガーマスク」の本名。伊達は幼い頃「ちびっ子ハウス」という児童施設に孤児として育ったが、途中でここから失踪。虎の穴に入りタイガーマスクとしてプロレス界にデビュー。その傍ら、自らが育った施設に、自分がタイガーマスクであることを伏せながら、タイガーマスク・オタクの金持ちな「キザにいちゃん」として定期的に訪れ、子供たちにプレゼントをし続けたというキャラクター。まあ、これにあやかったわけだけれども、とにかくアッという間に百件以上の贈り物が全国各地に贈りつけられることになった。伊達直人だけじゃなく、矢吹丈、京塚昌子(肝っ玉母さんだね)伊達政宗(単なる”伊達”つながりだろう)、さらにはスティッチなんて送り主(こりゃ、いったいなんなんだ?)までが登場するに至っている。

でも、なんで、こんな現象が突然発生したんだろう?これをメディア論的側面から考えてみよう。

報道がプッシュした伊達直人現象

伊達直人第一号の意図は、わからない。しかし、続発した後続については、その動機をメディア論(この場合は社会心理学・文化社会学)的視点からはある程度の分析が可能だ。

まず、プッシュ要因として機能したのがメディア、とりわけテレビであることは言うまでもないだろう。メディアが取り上げて全国に知れ渡った。これを見て「自分も」という気持ちが持ち上がったわけなのだが、問題はさらにその先の「では、なぜ、報道を見たら「自分も?」という気持ちになったのか?」ということだ。ここからは文化社会論でのベタな図式をちょいと展開させていただこう。

勝手気ままを匿名という環境によって形成した

情報化、消費化が進んだ社会は、個人の人権、そしてプライバシーが尊重されることで「勝手気まま」が許される環境が構築されている。ただし、こうやって個人の自由が完全に保証されるためには、他者からの干渉が避けられなければならない。行動をするに当たって、まず自らの勝手気ままな行動を相違するのは他者だからだ。

たとえば、人と街に繰り出して食事をしようとする。そのとき、あなたはラーメンが食べたいと思っていたが、相手はピザが食べたかった。こうなると、意見は合わない。だったら、あなたは相手との食事をやめて、一人ラーメン屋に向かえば、心ゆくまでお気に入りのラーメンを堪能することが出来る。

こういった「勝手気ままにしていたい」という個人の欲望を満たすべく展開されてきたのが民主主義と資本主義が同時に発展していく情報化社会・消費社会だった。現在、われわれが情報にアクセスしたり、商品を購入することの動機には、必ずといっていいほど「他人にとやかく言われないで自由な行動ができる」という要素が含まれている。それは行動に際しても(行動を妨害されない)、また行動の後にも(行った行動に対して非難されない)。その結果、われわれは匿名という環境を確保し、人に左右されないシチュエーションを作り上げることに成功した。

社会の一ビットでしかないという感覚

ただし、これは当然ながら“副作用”を伴う。それは「孤立」だ。誰にも邪魔されることはないということは、立ち位置を変えれば誰にも自分が知られないと言うことでもある。ところが人間はコミュニケーション動物。何らかのかたちで他者と関わっていなければ生きてはいけない。

そこで「勝手気ままにしていたい」という欲望に加えて、「でも、人に認められたい。人と喜びや連帯感覚を味わいたい」という欲望も併存してしまう。こういった「勝手気ままで孤立」を取るか、「不自由な連帯」を取るかという「“究極の選択”を究極の選択とはしないで両立させる虫のよい”方法はないだろうか。

その一つとして出現したのが、伊達直人による施設へのプレゼントだった。

伊達直人のプレゼントは”報酬付”

伊達直人、あるいは同様の名前で施設にプレゼントする人間たち。彼らは報酬を求めている。それは「メディアが伊達直人について報道すること」だ。つまり1.プレゼントする→こ2.れをテレビなどのメディアが報道する→3.これをプレゼントした本人が確認するという流れになるのだけれど、これによってプレゼントをした本人は自分のやった慈善が世間に知れ渡ったことを認知する。それは翻って「自分のやったことを喜んでくれた人たちがいる」と言うことになり、テレビというメディアを介して、本人が施設の人々と連帯したこと、さらには世間的に認知されたこと、つまり自分が社会的に認められたことを確認できるのだ。しかも、名前は伊達直人ゆえ匿名。だから自分のプライバシーが暴露されたり攻撃されたりすることもなく、自らはこれまでの勝手気ままを維持することが出来る。いわば、この“騒ぎ”を起こした本人でありながら、その名前が知られないゆえ、ニンマリと満足感を味わうことが出来る。

想像してみて欲しい。自分がプレゼントした事実がテレビで報道され、誰がこれをやったのかを自分だけが知っているという状況を。まあ、本人からすればさぞかしテレビを見ながら酒が進むに違いない。ちょっと社会を牛耳ったという感覚に浸ることすら出来るわけで。

要するに、これは自分が「勝手気ままでいても孤立していない」と言うことを確認するためのものであって「無私の精神」に基づいたものでは全くない。むしろ自己満足・自己中心的な行為に他ならないのだ。

そんな、偽善って許されるのだろうか?それに対する僕の答えは「もちろんOK!」というものだ。もっともっとやるべきだ、とすら思う。では、なぜか?(続く)