大学側の受け入れ体制は
リメディアル教育=大学入学前、あるいは入学直後の導入教育、勉強を学ぶための学び方の教育について考えている。前回は、様々な理由で大学がリメディアル教育を行わなければならなくなった経緯について述べておいた。
さて、こういったリメディアル教育の必要性が叫ばれる中で、大学当局側はどういった対策を講じているのだろうか。
実は、これが全然ダメなのだ。大学教員の仕事は1.研究、2.教育、3.学内行政の三つだが、2以降についてはほとんど素人に近い(2については、大学教員は教職資格がいらない)。よって教育のノウハウについてのスキルは低い(ちなみに一般社会経験を経ることなく大学教員になったものが多数を占めるので、当然社会性も低く、よって3に関する能力も当然低い)。それゆえ、こういったリメディアル教育を施すためには「教員にリメディアル教育の教育方法」についての研修などを実施する必要があるが、そこは自由が重んじられる大学という環境。それゆえ、「負担が増す」という理由で、これらへの教員の対応はおおむね消極的。
ただし、大学がサバイバルの状況になっている、つまりつぶれる大学が登場する時代。だから、こんな極楽とんぼみたいなことを言っている場合じゃないというのが現状だ。そして一部の高偏差値大学を除いて、ほとんどの大学こういった状況にある。そういった意味で偏差値五十以下の大学は、すべからくサバイバルな状況にあるといっていい(ちなみに高偏差値大学でも導入教育は行っている。それくらい学生たちの全体的な学力低下は著しい)。
基本的な解決策は
ではどうすればよいか?まず考えるべきは「高校までの基礎教育の見直し」だ。これまでのような、ゆとり教育は考え直すべきだろう。競争原理を導入しろとは言わないが、やはり多少はないとモチベーションも沸かない。少なくとも何らかの形で自らの学力スキルを透明化することは必要だろう。たとえば自動車免許取得のように段階を設け、これをクリアすることで次のレベルに達することができるような。問題は「個性」ではなく、まず「基礎学力」の養成にある。何の基礎もないのに個性云々を声高に叫んでいる場合じゃないだろう(個性教育なんて呑気なことを言っているから、中国や韓国にどんどん負けてしまうということじゃないのかな?)。
もうひとつは大学側の導入教育システムの配備だ。大学側も、導入教育を充実させるようなカリキュラムを設定する必要がある。もはや大学教員は「生徒指導」ならぬ「学生指導」をしなければならない時代になった。ちなみに僕の大学では一年の基礎ゼミナールで「本の読み方」というゼミを新入生に実施している。本を読んだことがない、本の内容をまとめる力がない、本を読んで考え人と議論するといった経験がないという学生がほとんど。つまりチョー基礎的なメディア・リテラシー教育=導入教育=リメディアル教育をやっている。
しかし、これは大問題ではありますね。
早稲田、慶応がスポーツで強い理由も、実は同じ構図。
これはオマケだが、なぜ最近、早稲田や慶応がスポーツで強いのか?それはスポーツ推薦入試があるから。かつてだったら学力的には絶対に合格不可能なスポーツ選手をこの推薦枠で取り込む。その結果、早慶はスポーツにおいても列強になる。だから、早稲田からプロ野球ドラフト第一位が三名も輩出したことは、何ら偶然ではない。その一方で、かつてはたくさん強力な選手を取り込むことができていた低偏差値大学は割を食うという状況になっている。つまり高偏差値大学=スポーツの強い大学という図式ができあがる。そう、大学も格差社会化しているのだ。
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