リメディアル教育って、何?

最近リメディアル教育を実施する大学が増えている。 と言っても、わからない人にはさっぱりわからんのだけれど、これはremedial、つまり治療ということばが語源になっている。で、もうすこしわかりやすい説明をすると、何のことはない「補習」のこと。でも「補習」だと居残りみたいでイメージが悪いので横文字にしている(ってことか?)。ちなみに、本当の語源はアメリカで、貧困層の教育不徹底を補うために、別枠で授業を設けたことに端を発する。

これが、今なんと数々の大学で、次々と行われているわけだ。その中身は二つ。入学前の教育と入学後の導入教育(両方実施する大学もある)。まず前者の入学前、つまり、まだ高校生のうちにやる教育。これは、推薦入試で合格した高校生に対し、大学で学ぶ基礎学力を養っておこうというのが課題。裏の事情としては、他の大学に逃げないように取り込んでおくというのもある。一方、後者の場合は、入学直後、基礎ゼミナールなどで、やはり大学で学ぶべき基礎教育について指導を行うものだ。

内容は基本的なメディア・リテラシーの指導。1.情報入手(図書館利用、ネットの使い方、情報の集め方)、2.情報処理(文章の書き方、レポートのまとめ方、レジュメの切り方)、3.情報発信(プレゼン、討論の仕方)などが中心で、要するに「勉強を学ぶ」前に「勉強の学び方を学ぶ」というのが教育の基本となる。でも、何で、こんなことを大学がやるようになっているのか?

総合的な学力の低下

まずなんと言っても基礎学力の低下という大問題がある。個性を伸ばすという前提の下で実施されたゆとり教育は、結果として基本的な学習(昔だったら「読み、書き、そろばん」といった)が完全におろそかになるという事態を生んでしまった。基礎的な勉強が全くできていない。たとえば英語の例をあげれば、五文型がわからない、発音記号が読めないといった学生があたりまえのように存在する。たとえば、僕が講義で英語の話なんかしようものなら、いきなりアレルギー反応を起こし、急に口ごもったりするのだ。いやそれどころか、勉強の基本的手続きである文章が書けない、議論ができないなんてのも、あたりまえのように存在する(1200字のレポートを、たった一段落だけで書いてくるなんて”蓮實 重彦”ばりの文章がいっぱいある)。つまり、ゆとり教育は、ほとんどの子供たちをほったらかしにするという事態を結果として招いてしまっているのだ。ゆとり教育では自ら考える力を養うことが求められたのだけど、教える方、つまり教員側がそのやり方を知らなかったので、結局、スカスカの授業内容になってしまった。そして、そのツケが大学に回ってくると言うわけだ。だからリメディアル教育が必要ということになる。

大学全入による「学生」という顧客の奪い合い

大学側にも事情がある。現在、5割程度の大学が定員割れという供給過多の状態。当然、大学側は学生の確保に躍起になる。その際、戦略的に用いられるのが「推薦入試」。かつてなら学生のほとんどは一般入試、つまり、ちゃんと試験を受けて入ってはきたが、現在では、そのうち5割以上が推薦という大学はザラ(文科省は6割以下に抑えるように指導するようになっている)。大学側は、様々な推薦入試スタイル(公募制推薦、AO入試、スポーツ推薦入試、指定校入試、社会人入試、留学生入試などなど)を用意し、多方面から学生を集めようとする。つまり「青田刈り」だ。しかし、これらの入試制度に共通するのは、それらしい受験科目がほとんどないこと。内申+小論文+面接といったものが普通で、中には面接だけというのも。

こうなると完全な売り手市場。受験生としては、志望校への合格が一般入試では学力的に無理とわかると、より入学が容易な推薦に切り替えて受験してくる(ここで「 推薦より一般入試で入学した学生の方が明らかに学力が高い」という、かつてとは全く違った状況が出現している。)。しかも高校側はこういった推薦を受けたい生徒の内申書をチョコチョコっと操作する、つまりゲタをはかせるなんてことを平気でやっている。だから、前述した五文型が言えない、発音記号が読めないなんて学生が出現してくるのはごくごくあたりまえということに。ちなみに、ウチの大学(私学)だと、まあ英語の学力レベルは中二程度、前任の公立大学も同じようなものだった。つまり、英語の話をするとフリーズする。

もっとも、推薦入試は大学側にもメリットがある。推薦入試は偏差値には現れないので、一般入試の偏差値低下をカムフラージュすることができるからだ。つまり、受験生は推薦で採用するので、偏差値に現れない(偏差値の維持はもっぱら一般入試の受験生が担当している)。

この二つの要素によって、かつて無いほど学力不足、とりわけ基礎学力が不足している学生が大学に入学してくる。学問に関しては建築工事どころか基礎工事・造成作業すら行われていない、フロンティアが果てしなく広がった人間が入ってくるわけで、それが結果としてリメディアル教育の実施を余儀なくさせることになったのだ。ちなみに、学生の方も、買い手市場のことをよく知っているので、勉強はあまりしないし、勉学意欲も問題意識としては持ち上がってこない。苦労して入ってきたというのではないので、よりいっそうモチベーションは低い。要するに「何気で」入学してくる。

つまりゆとり教育→供給過多→入試の易化→学力低下→勉学意欲の不在という負のスパイラルが展開するわけで……そして入試の意味はどんどんと形骸化する。それは、もちろん大学教育の意味自体を形骸化すると言うことでもあるのだが……これって、ヤバいんじゃない?なんか対策立てないと。では、どうするべきか?(続く)