セキュリティという危険な暴力装置が作動するとき

「セキュリティ」という考え方のリスク=危険性について考えている。

こうやって考えてみるとセキュリティというのは二つの側面からのリスクを背負っていることがわかる。一つは、あたりまえだが外部からのそれ。つまり、外からやってくるリスク、そしてもうひとつは今回取り上げた、内部から、つまりセキュリティを設定する側からやってくるリスク。そして、恐ろしいのはむしろ後者の方ではないだろうか。というのも、前者の場合、セキュリティを設定しようとする側にはそのリスクが明瞭であり、コントロール可能だが、後者の場合、そのリスクが不透明、あるいは意識されない可能性が高く、コントロールしづらいからだ。そして、こうやってセキュリティの線引きを対象化せずに線引きを行った場合、それは恐ろしい権力を伴った暴力装置としてセキュリティは機能することになる。しかも、それを発動させる当人は「正義」と信じてやまないわけで、本人すら権力を暴力的に発動しているという自覚がない。いいかえれば、それは、どれだけこの権力をふりまわしても、本人にとっては正当性があるわけで、こうなるともはや手のつけようがなくなってしまうのだ。

そして、こうやって無意識のうちにセキュリティを媒介に権力を振り回すとき、その当事者は、必ずといってよいほど、その権力を振り回そうとする別の欲望が、そこには介在している。おそらく、今回、パソコンに照って的なセキュリティを施そうとした事務員には、大学教員に対する支配欲(あるいはコンプレックス)が、こういった行動の背後には存在する。しかも、やっかいなことに、この欲望を、やはり本人は知らない。つまり、無意識なのだ。

僕の場合は、事務員がプライベートな権力(あるいは「お役所的」権力)を、自ら対象化することなく振り回して、周囲に顰蹙を買ったわけで、まあ、この程度なら「こまったちゃん」で済ますことができないこともない。しかし、これが、国家権力的な影響力を備えていたら、これはとんでもないことになる。何のことはない、多くの人間の自由が剥奪されるのだから。

セキュリティという暴力装置が偏在する現在

そして、こういったセキュリティの権力に基づいた無意識の線引き、実は最近ではあちこちに偏在するようになっている。以前、本ブログで取り上げた神奈川県の受動喫煙禁止条例などはその典型だ。分流煙の害を説くあまり、喫煙の自由を奪ってしまったり、アルコールによるトラブルを防ぐため大学キャンパス内での飲酒を禁止してしまったりといった取り決めがその典型だ。たとえば、前者の場合はこういった条例を実施する側の支持の取り付け、後者の場合、トラブルが起きた際の大学の責任逃れという別の欲望が、この権力装置を作動させていたりするのである。

そしてこの別の欲望装置の存在は、セキュリティには、実は二つのリスクがあることを示している。しかもそれはリスクを回避しようとするとリスクを発生させるというパラドックス的なかたちで生じるのだ。それは何か?(続く)