8月15日は終戦記念日。日を前後して戦地で散った若者の記録や、戦災を受けた人々の体験が語られる。こういった報道の継承はもちろん重要だ。だが、もっと多くの人々が体験した、あまり語られることのない戦争の記憶も、まだあるように思う。
僕の従兄(歳は三十近く離れていたが)は、終戦の日、朝から池に釣りに行き、帰宅した際、その事実を父親の”鉄拳”で知らされた。「こんな大事な日に、なんと不謹慎な!」というわけだ。
当時の大多数の日本人にとって、戦争というのは、こういった日常の中にあっただろう。ある日、戦争が始まり、激化し、敗戦色が濃くなり、そして戦争が終わった。だが、身の回りには爆弾一つ落ちてこなかった。そういった「大きなことは何も起こらなかった戦争」こそ、これから語られるべきではないだろうか。
もちろん、何も起こらなかったわけではない。戦地に向かった知人や肉親の何人かは帰らぬ人となっている。だが、死は紙で知らされるのみ。また日に日に生活事情が逼迫し、戦時統制も厳しくなっていく。こういった、ひたひたと日常に入り込んでくる戦争の現実を、当時の人々はどう受け止めていたのだろうか。
現在の若者はもちろん、団塊世代ですら戦争経験はない。だから、戦争を様々な視点からイメージすることが必要だ。そして最も共有された経験であるにもかかわらず、地味ゆえに語られず、イメージしづらいのが、こういった、いわば「何も起こらなかった戦争」だ。
そう、それは、もうひとつの戦争の悲惨さを物語っているはずだ。
(神奈川新聞2010/8/29掲載文)
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