英語力低下は教育力低下

前回までは僕が教鞭を執る下位有名大学(偏差値四十台後半)の学生の英語力が中一レベルであることをお知らせしておいた。だが、これはなにも僕の教えている大学生たちに限っていることではなく、むしろ現代における日本人の教育力低下を物語っていると僕は考えている。そして、国際化云々で英語力のことについてはしばしば指摘されるので英語力ばかりが問題視されているのだが、実はそうではなくて、この英語力の酷さは、単に日本における教育の問題を象徴しているに過ぎないとも僕は考えている。つまり、教育全般がヤバい!ではそれは何か?

詰め込み教育の弊害(ベタですが)

それは、あまりにベタで申し訳ない結論ではあるが(あとで一ひねり入れますので、少々お待ちください)、詰め込み教育の弊害であるからと考えられるだろう。文科省も指摘していたように、とにかく役に立たない知識ばっかり教えるようなことをやっていたので、教える教育内容=情報の中身がわからない。要するに教育を受ける子どもたちは、咀嚼せずにひたすら呑み込むというような「大量の餌(=学習知識)でフォアグラを作らされているカモ」みたいな存在だ。

実際、僕が学生だった頃には、こういった「学習フォアグラ」みたいなヤツが結構いて、こういう連中は完全に「?从甲諭瓮▲織泙いい」とか勝手に考えているほどアタマが悪かった。その一方、当然ながら、実践力が極めて乏しかった人間がやたらと多かったのだけれど。英検一級と英検ナシの大学一年生を同時にタイに連れて行き、安宿街カオサンのボロゲストハウスに投げ込んだことがあるんだけれど、帰り際に友達をたくさん作って、楽しくコミュニケーションしていたのは英検ナシの方だった。つまり英検一級は完全な「学習フォアグラ」でまったくフットワークが効かなかったのだ。

こんな連中を大量生産したわけで、そういった意味ではその後「ゆとり教育」なんてことを考えはじめたのは、結構マトモな発想に思えないこともなかったんだが。

そして、ゆとり教育の弊害(ベタですが2)

ところが、このゆとり教育もまたどーにもならないものだった。ゆとり教育=学習内容の削減みたいなことになったのは、まあ、いい。ところが、ではどうするかについて全然考えがなかったのは大問題だった。ゆとり教育は、ただただ単に学習量を減らしただけ。ところが、教えるやり方は全くといっていいほど同じだった。つまりただ単に知識を詰め込むだけ。言い換えれば数が減っただけ。つまり知識の深度、よく噛んでその知識を身体化する、実践に有用なものとするというようなことは全然やっていない。こうなってしまうのは無理もない話で、教える側が詰め込み教育しか受けていないで、突然、ゆとり教育をヤレと言われたので、結局、何をやっていいのかわからず、単にこれまでの学習指導法を薄めただけと言うことになってしまったのだ。僕は宮崎県で郷土かるたの普及という事業をやっていて、小学校の先生方とよく話をさせいただく機会があるのだけど、口々に「総合的な学習の時間に何をやったらいいのか、全然わからない」と愚痴をこぼしていたのをおぼえている。

また、ゆとり教育は教育の機会について格差を生んでしまったことも大問題だ。学校五日制にして、なおかつ学習内容を減らす。それで教育すればどうなるか。なんのことはない、学校の教育だけを受けている子どもたちは、以前の子どもたちに比べて学習機会が激減してしまったのだ。一方、それに危惧した金持ちの親たちは、これを逆手に取る。つまり学校五日制でスカスカ授業なので、もはや学校の授業などほとんど相手にせず、子どもたちを塾に入れてビシバシ鍛えるのだ。しかも土日はおおっぴらに塾にぶちこめるわけで、しかも塾って言うのは競争原理、業績原理で回転している。つまり、子どもたちに学習内容をどれだけおぼえさせるかが商売の優劣をつけている。だから学校なんかよりもはるかに能率が上がる教育方法を用いて、少人数で生徒たちに、グイグイたたき込むわけだから、こりゃ成績は上がるはずだ。

かくして金持ちはどんどん成績がよくなり、ビンボーはどんどん取り残されるという格差社会の構造が出来上がったのである。

いちばんの問題点はやり方が変わらないこと

では詰め込み教育が悪いのか、それともゆとり教育が悪いのか。その結論は簡単だ。どっちも悪いし、どっちも悪くない。その二つに共通する教育方法が問題なのだ。そしてその問題点とは「ただ知識を垂れ流し的に提供する」というやり方だ。
よくよく考えてみてほしい。授業で一回やったくらいで、その学習内容が身につくなんてことが、果たしてあり得るだろうか。もちろん、ありはしない。学習というのは、同じことを何度も繰り返し、あるいは違うシチュエーションの中、文脈の中にその学習項目を流し込んでいくことで、やっと身につくものなのだ。これは哲学用語でテクネーと呼ぶ技術を指しているのだけれど、要するに実は技術というのは理屈や形式(こっちをハイデガーはゲシュテルと呼ぶ)じゃなくて、こうやって使いこなせるモノなければいけないというわけだ。そこで、次回は「テクネーって何」ってことを考えてみる。