新人類=高感度消費者の消滅

80年代の若者像「新人類」。だが86年をピークにこの名称は次第に死語へと転じていくことになる。但し、ここまで展開してきたように、若者が新人類ではなくなったというわけではない。新人類は、もともとメディアやマーケティング業界が「期待されるべき消費者像」としてでっち上げた若者のイメージでしかないからだ。ということは、こういったイメージがイケたものではなくなってしまったというのは、要するに新人類像を標榜して商売を展開したところで費用対効果的に旨味がなくなったからだと考えるのが妥当だろう。
では、具体的にはどのような「旨味のなさ」が、現れたのだろうか。

多品種少量生産という矛盾した商品戦略
旨味がなくなる理由は、そもそも新人類=分衆といった消費者像に根本的問題があったから。というか、もともと儲からないようなマーケティング手法を提唱したことがまずかったとも言える。マーケティングの手法はここまで展開してきたように記号的価値、すなわち商品に付与された社会的意味をもとめて商品を購入させるというやり方だった。自己実現を商品購入によって達成させるために提唱させた手法は「多品種少量生産」、つまりたくさんの種類の商品を少しずつ生産して、消費者がそれを購入することで他者とは違っているという欲望を満足させることだったのだが、そもそもこの発想自体が資本の原理とは矛盾したものだ。

少ない種類を大量に売ったほうが、儲かる

資本の原理はこの逆、つまり「少品種大量生産」である。これはこんなふうに考えてみるとわかりやすい。たとえば、消しゴムを生産して販売したとする。消しゴムを生産するためには生産ラインが必要だ。この生産ラインにたとえば一千万円の経費がかかるとする。もし、この生産ラインを使ってたった一つの消しゴムしか作らなかったとしたら、この消しゴムを販売して利益を得るためには、この消しゴムは最低いくらで販売すればよいか。当然、、生産ラインの経費に原材料費、流通の経費なども考えるわけだから一千万以上でなければならない。

だが、この生産ラインで消しゴムを一千万個生産して販売すれば、消しゴム一個が負担する生産ラインの経費は一円で済む。一億個作れば十銭、十億個作れば一銭だ。ということは、同じ生産ラインを用いて同じ種類のものをたくさん作れば作るほど、商品の単価は下がるとともに、結果として生産者側の利益も増大するわけだ。もちろん、消費者も商品を安く購入できるわけで、こちらも万々歳になる。

ところが、多品種少量生産とは、極言すれば一つの生産ラインで一つの消しゴムを作るようなもので、これでは単価が高くつく。しかしながら、生産数を増やせばそれは分衆の好む「人とは違っているもの」ではなくて「大衆が所持するダサいもの」に転じてしまう。結果として多品種少量生産の戦略は費用対効果的に極めてリスクの多い、そして利益を期待できないものだったのだ。