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        上:『キャンベルのスープ缶』、下:『New Spirit』

無意味さの意味を突き詰めれば~A.ウォーホールのポップアート

えっ?ラインハートの『抽象絵画』以上に対象を消す方法なんてあるのか?あるとするならば、ラインハートの真っ黒けの絵のどこにコードを見いだし、これを否定すればいいんだ?

ラインハートの作品に残るほんのわずかのオリジナル=対象の片鱗とは?確かにあるのだ。ただし、それは作品にあるのではない。作品は真っ黒だからそれ自体はメッセージを持っていないと言ってもいいだろう。ところが、カンバスに真っ黒ベタに塗られているがゆえに、これはやっぱり「アート」なのである。というか、これを見る側が「これはいったい?」と思うとき、まず見る側が前提しているのは、この作品が「絵画である」という認識=記号だ。だから、受け手は、この真っ黒な絵の先にオリジナルの映像=対象を見いだそうとする。もちろん、そのオリジナルは前回も示しておいたように、個人個人でバラバラなのだが。しかし、それでも見ている側は、そこに「何かが写し取られている」という思いがある。

そう、これが唯一残ったオリジナルなのだ。つまり送り手にはないが、まだ受け手がそこにオリジナルを感じている。それこそがオリジナルの最後の片鱗だ。

「オリジナル=志向対象はありません」と作品に示しておく

では、どうすれば受け手に「これにはオリジナル=志向対象がない」ということをわからせることが出来るだろうか?その一番簡単な方法を示したのがA.ウォーホールだった。しかも、実に簡単な方法で。それは絵画に「これはオリジナルではありません」というメッセージを付け加えておくことだ。紙幣を印刷物に掲載する際に、偽造されては困るので、紙幣のコピー上に「見本」という文字を加えるということがあるが、これと同じことをすることで、これはメッセージではないということをあからさまにメッセージとして伝えるということにウォーホールは成功する。まあ、これもポロックと同様、反則技では、ある。で、どうやったのか。

彼がやったのは、既存の作品のコピー。しかも、誰が見てもわかるようなあからさまなコピーを作品として提示したのだ。あるときは色を変えただけ、またあるときはほとんどそのまんまというかたちで。マリリン・モンローを描いた絵では映画『ナイアガラ』のモンローのスチル写真を色づけし、並べた。『キャンベル・スープ缶』という作品では、アメリカ人に最もポップな缶スープ(缶スープの中身を鍋にあけ、空になった缶に水をいっぱいに浸し、これを鍋に空け、暖めるとできあがりで、たくさんの種類がスーパーで販売されている。デザインは皆同じ)の缶が精密に描かれていた。『New Spirit』では箒を銃に見立てて肩に担ぎながら行進するドナルドダックが登場した(このタイトルはドナルドの主演したアニメ作品と同じ。というか、この絵は、その作品の一部をそのまま写したものなのだ)。いずれもオリジナルはウォーホールのものではないことが見る側にわかるようなポップな題材が意図的に選ばれていたのだ。つまり「リジナル=志向対象はないよ」ということ、つまり「「メッセージがない」というメッセージ」をパロディ的に、そしてこれ見よがしに示そうと彼は考えたのである。

ここまでくると、アートは何かを表現すると言うよりも、表現することを否定すると言うことが表現という、徹頭徹尾ひねくれたものになる。ちなみにウォーホールは作品を作るスペースのことをアトリエではなくファクトリーと呼んでいた。ようするに工場でアートは生まれないというわけだ。ある意味、ウォーホールほどアートのコード、つまり「「コード破り」というコード」を徹底的に守って見せた、きわめてコンサバティブなアーティストと言えないこともないのかもしれないが(ブログを書いている僕までが、ひねくれてきたかも?)。

さて、こうやってオリジナル=対象は絵画から徹底的に消されていったのだが、それでも実はこれらアートには共通するもう一つのコードが存在する。そしてアートはこの絵画が共通して備えているコードを破壊するという試みにもまたチャレンジしていたのだ。では、ここまで展開してきたアートに共通するコードとは何か?それは、いわば「ちゃぶ台返し」とでも言うべき手法だった。(続く)