オリジナルを消す最終形態は?アド・ラインハート

さて、J.ミロのコックリさん画法にまでたどり着くと、もはやオリジナルは完全に消し去ることが出来たのではないか?と思いたくなるのだが……ところがどっこい、この先にまだオリジナルを消す、つまりミロをコードとして、このコード破りをやるアーティストが存在した。それがアド・ラインハートだ。「えっ?もう、やることねーだろーがー」とお思いのあなた。アーティストたちの「ひねくれ度」はもっと先を行っているのですよ。

それはラインハートの『抽象絵画』(川村記念美術館蔵)という作品だ。
http://kawamura-museum.dic.co.jp/collection/european_art.html参照)。
この作品、実はカンバスが真っ黒に塗られているだけ。ただしよく見るとこの黒塗りは九つの四角い黒がギリギリでわかるかわからないかくらいのレベルで表現されている。「でも、だからどーだって言うんだ?」ってなことになるんだが……そう、「なんでもねーよー」なのである。

ラインハートがやろうとしていたことは、ようするにミロがやっていたような「魂の叫び」みたいなメッセージすら取っ払ってしまうことだった。つまりこの絵は「何にも表象していない」「オリジナルがない」ということを表現しようとする絵だったのだ。いいかえれば、この絵をいくら真剣に眺め続けても、そこにラインハートのメッセージをメッセージを見いだすことは不可能。「何も表現していない」というメッセージを除いて。だからタイトルもほとんどキャプションにはならない『抽象絵画』という名前だった。そして、こういったスタイルはミニマリズムと呼ばれた。


じゃあ、この作品に対して、見ている側は、いったい、どういった意味を読み取ればいいのか。その答えは「読み取らないで、感じること」ということになるだろう。つまり、ほとんど黒なのでなんだかわからない、解釈できない。だから感じてほしいというわけだ。しかし、そうはいっても単なる黒。この理屈は、別に絵画じゃなくても可能だろうと考え直したとき、かなりこの絵自体がバカバカしいものにみえてくると言うのも、事実だろうなあ。

クール・メディアとしての絵画

また、こんなとらえ方もある。真っ黒なので、なんだかわからない。そこで「何なんだろう」とイメージ=妄想を働かせる。そして、見ている側に勝手に意味を創造させる。こんなやり方もあるだろうし、実際このスタイルはJ.マチューナス、J.ケージ、オノ・ヨーコといったアート集団・フルクサスが得意とするところだった(これ、いずれ取り上げます)。

さて、こういった送り手側に情報が何にもないので、受け手の側が勝手に情報を補填する、前述の言葉でいいなおすと「妄想する」ことを余儀なくされる対象=メディアをメディア論では「クール・メディア」と呼んでいる。ということは、この作品の前で、受け手はそれぞれ妄想=クールするので、その解釈はみんなバラバラになるというわけだ。そしてこれは、美を感じるときの定義に見事に適っている。美とは異化作用、つまり記号(=シーニュ)は存在するが、記号表現(=シニフィアン)だけがあって、シニフィエ(=記号内容)が見あたらないときのイライラ感を指しているからだ。そう考えれば、これは「究極のアート」かもしれない。

ということで、ついにアートはオリジナル=写し取る対象を消し去ることに成功した。もう、やるネタはこれで終了!よかった、よかった……と、いいたいところだが……実は、まだ、その次があったのだ。この作品ですら、まだオリジナル=志向対象は存在するらしい。アーティストっていうのは、よっぽどヒマなんだろうか。(続く)