定義が難しい「美的」ということば

今回はちょいと抽象的な話を。

「美しい」という言葉はどのように定義されるのだろうか?

これに対する回答は、得てして「美しいものは美しいから美しい」となる。で、これっていうのははっきり言って情報ゼロで何の回答にもなっていないに等しい。これよりもうちょっとわかりやすそうな回答は「言葉では表現できないもの」とか「理屈ではなく感覚に訴えてくるもの」と言うところになるだろうか。最初の回答よりはよいかもしれないが、やっぱり意味不明瞭であることには変わりない。

美しいかどうかの基準は、人それぞれである?

対象に対して「美しい」と感じるのは、そこに絶対的な美があるからなんだろうか?まずこれから考えてみよう。

例えば焼き物鑑定士の中島誠之助が古伊万里の茶碗をみて「いい仕事してますねえ」と感想を述べるとき、この言葉の含んでいる意味は、それが「美しい」ということであることは誰でも解る。ただし、同じものを素人である僕がみたら「いい仕事してますねえ」とはいえない。つまり「美しい」とは言えないはずだ。というか、こちらとしては古伊万里の善し悪しを判断する基準がないのだから。もっと言ってしまえば僕の場合には「美しい」とも「美しくない」とも言えない。「わからない」のである。

だが、これは中島が美を見抜く鑑識眼があるからで、ということは古伊万里自体に絶対的な美が存在していると言うことになる。だったら絶対的な美はあるのか?

その逆を考えてみよう。僕は職業柄、映画を分析的に見ることが多い。で、そのとき「おっ!これはスゴイ」とか感じることがあるのだけれど、この時も当然、その作品を「美しい」と感じている。一方、同じ映画を「これのどこがいいの?」とみる人間も多い。「いやいや、この映画の良さはねえ!」などと、したり顔で分析してみせるのだが、とするならば、この時僕が「美しい」というのは、さっきの古伊万里のを評した中島誠之助と同じ立場にいて美を見抜く鑑識眼があるということになり、ということはやっぱり映画に絶対的な美が存在していると言うことになる。

さて、本当のところはどうだろうか?この答え、僕は「美は相対的なものでしかない。しかし形式的=メディア論的には絶対的な美が存在する」と考える。これはどういうことだろうか(続く)