音楽を語れない人間の登場は音楽の貧困を生むか?

コンピレーション・アルバム視聴が涵養する新しい情報行動スタイルについて考えている。

コンピは本来、そのジャンルやミュージシャンの入門/ガイド的な存在として発売されているものだろう。つまり、とりあえずそのジャンルなどを知りたい。で、購入してみて、その世界を概観すると同時に、自分にとっての向き、不向きなどを決定し、それから個別具体的なアルバムやミュージシャンにディープにアクセスする、といったことが意図されているはずだ。

しかし、ここにあげたようなコンピの聴き方はマジメにオタク的に聴こうが、不真面目に垂れ流し的に聴こうが、もはや入門という目的からはほど遠いところに視聴目的がある。つまり、コンピ→ディープの流れではなく、コンピ→コンピ、あるいはコンピだけで終わりという聴き方。言い換えるとすでに指摘しておいた超消費的な聴き方なのだ。そして、これも指摘しておいたように、このような聴き方の背後にはコミュニケーション志向と保守回帰という行動傾向が背後に目的として設定されている。これは美的というものからはほど遠く、これまでの音楽を真剣に聴くという立ち位置からすれば、明らかに退行現象といえるだろう。

つまり、この聴き方だとコンピに例えば前述したゲッツ&ジルベルトの「イパネマの娘」というすばらしい演奏が入っていたとしても、これでは単なるBGMとしか思えない。曲の奥行きとかを知るためには、ミュージシャンやそのジャンルとリスナーの深い関わりが必要だからだ。だから、この経験の無い、コンピだけしか聴かない人間には、それは単なる「耳障りのよい音楽」の域を決して出ることはないのだ。

鑑賞の新しい対情報行動スタイル?

ただし、こういった音楽の聴き方に対する正当性を僕が振り回せるというのは、これまでの聴き方が正しいという前提においてである。立ち位置を変えれば、これはこれで新しい音楽の鑑賞スタイルが誕生しつつあると考えるのがメディア論的立場ということになる。そして、すでにこういった内容より、ジャンルや分析面、消費面にターゲットをあてた音楽があちこちと出回っていることも事実。つまり、音楽聴取という情報行動が変わりつつあると考えるべきだろう。それが、どのような新しい音楽的感性を生むかどうかは、今のところは不明だが。

僕は、いずれ情報を整理し、一つのジャンルや一つのアルバムをじっくり聞くというシンプルな視聴スタイルが揺れ戻しとして起こるのではと踏んでいる。もちろん、情報環境は飛躍的に変貌しているゆえ、かつてあったスタイルにそのまま戻るというものではないだろうが。