大澤真幸の物語論……わが国への<物語論>のローカライズ

リオタールの<物語論>を本格的なかたちでわが国に導入したのは大澤真幸である。大澤は『虚構の時代の果てーオウムと世界最終戦争』(筑摩新書、96’)の中で、見田宗介の議論(『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、95’)を整理するかたちで戦後史を<理想の時代>から<虚構の時代>への移行とらえている。そこでは<大きな物語><小さな物語>という表現こそ出現しないが、理想から虚構への移行の中に実質、<物語>の縮小を見ているといってよい。これを詳しく見ていこう。

到達可能な「理想」

<理想の時代>は45年から70年まで(終戦から連合赤軍事件まで)を指している。大澤によれば、理想とは「未来において現実に着地することが予期(期待)されているような可能世界である。だから、理想は、現実の因果的な延長上になくてはならない」(大澤96、P.39)。これを敷衍すれば<理想の時代>とは、「現実=現在が来たるべき未来において理想に到達することが可能であると信じられた時代」ということになろう。これはリオタールの用語を用いればイデオロギー(=現実)が物語(=理想)によって正当化されている時代と言うことになる。すなわち<理想の時代>とは現実ー理想/イデオロギーー物語関係が安定したかたちで整合し、現実が秩序づけられていた段階であり、換言すれば社会大のレベルで確信されていた<大きな物語>の時代ということになる。大澤は理想の時代の黄金期を60年代の高度成長期に見ている。

到達不可能を知りつつ依存する「虚構」

一方、<虚構の時代>は 70年から95年まで(連合赤軍事件からオウム真理教事件まで)を指している。虚構は「現実への着地ということについてさしあたって無関連であり得る可能世界」(同P.39)ゆえ、最終的に現実が理想へと到達すると言った関連を見いだすことが出来ない。それ故、虚構の時代とは「情報化され記号化された疑似現実(虚構)を構成し、差異化し、豊饒化し、さらに維持することへと、人々の行為が方向付けられているような」時代である。言い換えれば、理想的なものをいくら志向しようとも、それは虚構であるゆえ絶対に到達不可能ということをわれわれは知っている。にもかかわらず、それを虚構と知りつつアイロニカルに志向し続ける段階である。再びリオタールの用語を援用すればイデオロギー(=現実)を支える<物語>への不信感が増大し、一方でその整合性が破綻していることを知りつつ、この関係形式的に維持し続けるような時代である。すなわち<虚構の時代>とは理想ー現実/物語ーイデオロギー関係における理想が虚構に取って代わったことで、理想(=虚構)への到達が不可能となり、その整合性に不信感を抱きつつも、不信感を抱いたまま虚構ー現実という関係に依存しざるを得ない段階と言うことになる。

このような<虚構の時代>の態様は、まさに片桐が指摘した「大きな物語の終焉」の二つの側面に照合している。すなわち物語が社会的に構築された相対的存在でしかないことが明白化され、これによって物語が拡散し、その結果、大きな規模の<物語>は小さな規模の<物語>へと移行していくのである。(続く)