物語論とポストモダン

八十年代中盤、京都大学助手(当時)の浅田彰の出現と共にわが国にニューアカデミズムが流行した。それはまさにブームと呼ぶにふさわしいもので、J.ドゥールーズ、J.デリダ、J.クリステヴァ、M.フーコーといった現代思想のフロントランナーたちの理論が一般の週刊誌で解説されたほどだった。

ニューアカデミズムとは言い換えればポストモダン哲学を指していた。ポストモダンとはその名の通りモダンの次にやってくる段階を指す。モダンにおいては近代的なツリー構造=ヒエラルキーが存在し、社会構造がこのヒエラルキーに包摂されていた。だが、情報の多様化、相対化と共にヒエラルキー構造が崩壊し、権威や価値観が均質化していく。現代思想ではこの一連の状況を建築学の用語を借用するかたちでポストモダンと命名したのである。この時代は、一般大衆が使いこなせるパーソナルコンピューター(16ビットパソコンの発売)やテレビ・ゲーム、ファミリー・コンピューターの本格的な普及、既存の価値観を相対化するパロディや差異化広告の流行、欲望を全面肯定し、既存の権威や常識を無視する新人類の出現などが社会的現象としてしばしば取り上げられ、これらが情報化時代の到来の象徴的かつ具体的なあらわれと見なされた。そして、これら新しい現象を分析する手法としてポストモダンというパースペクティブが、きわめて有効な装置として機能すると考えられたのである。

そんな中、86年フランスの哲学者J.リオタールが著書『ポストモダンの条件』を発表する。この中でリオタールは、こういったポストモダンにおける価値観の相対化というゼーションを物語の終焉というかたちでまとめ上げる。

リオタールの物語論

リオタールはポストモダンを「大きな物語の終焉」という言葉で括っている。これを説明するために、まずリオタールによる<物語>の概念を確認することからはじめよう。リオタールは<物語>の典型として啓蒙主義の物語(理性と自由の解放)、キリスト教の救済の物語(自己犠牲の愛による人間の救済)、マルクス主義の物語(資本主義社会において搾取され疎外された労働の解放)、科学技術の進歩の物語(科学による人類の豊饒化)をあげているが、ここでは、その内の科学進歩の物語を取り上げ、<物語>について説明しよう。

科学という視点からすれば<物語>は単なる寓話である。ところが科学もまた真なるものを探求するものである限りは、科学は自らのゲーム規則を正当化する後ろ盾が必要となる。この場合には科学というイデオロギーが真理を求めているものであるということを保証するもの、科学というアプローチが正しいという認識を存在論的に認証するいわれが必要となる。 こういったイデオロギーを正当化するメタ言説こそがリオタールの指摘した<物語>という概念だった。 それゆえ科学の場合、これは「科学の進歩によって人類は前進的に豊饒化していく」とういう物語になる。そして、そうした<物語>に準拠することで科学が保証され、社会の制度として受け入れられている時代、すなわち<物語>という機制が正常に稼働している状況をリオタールは<モダン>と呼んだ。<モダン>とは<物語>によって知が正当化された時代なのである。

ところが<ポストモダン>においては、このイデオロギーと物語、すなわち<科学>と<人類の豊饒化>の関係が不安定になり、<物語>の信憑性が失墜する。これは科学の進歩によって、依拠すべき<物語>自体への不信感が露呈した必然的結果であった。科学の進歩は膨大かつ多様な情報を社会一般に提供することであらゆるものの相対化を促し、さらに科学が拠って立つメタ言説としての<物語>の正当性すらも相対化してしまったのである。
これによって、社会大かつ一元的に保持されていたイデオロギーと物語の関係が解体し、これらの<イデオロギー>と<物語>の関係は分散されていく。それが「大きな物語の終焉」すなわち<大きな物語>から<小さな物語>への移行である。

大きな物語の終焉、その二つの側面

さて、リオタールの「大きな物語の終焉」の議論について、片桐雅隆は二つの側面を指摘している。一つは前述したような社会大のイデオロギーを正当化する物語の解体、すなわち啓蒙主義、キリスト教による救済、マルクス主義、そして科学主義に付随する物語等が次第に縮小していくという側面であり、もう一つは物語が「歴史的な「客観的な事実」や法則ではなく、歴史を解釈する一つの物語」でしかない、つまりこれらも社会的に構築された相対的な存在でしかないことが明白化していく側面である(『過去と記憶の社会学』世界思想社)。言い換えれば、「大きな物語の終焉」とは認識論レベルの量的な縮小(規模の縮小)と存在論レベルでの質的な縮小(絶対性の崩壊)の二つが同時進行し、<物語>が社会の複雑性を縮減する装置としては機能不全を起こしていく過程を意味しているのである。(続く)