ホットでベタでつまらないディズニーアニメ

もちろん、その逆、つまりクールがホットになってしまうものもある。たとえば六十年代まで作られていたディズニー短編アニメ、とりわけキャラクターのプルートが出演する作品がその典型だ。今、これを見るとほとんど退屈でかなりの人間が眠くなるのではなかろうか?言い換えるとありきたりで、つまらない。ただし、これはこの作品がはじめからイマジネーションに欠けていたことを意味するものではない。恐らくこの作品が上映された頃には、かなりの観客(当時は映画館で上映されていた)が興奮した、つまりクールになったはずだ。

では、なぜ今われわれがこれを見るとおもしろいと思わないのかというと、それはこのプルートの登場する作品の中で展開されるギャグやパターンが完全に普及し、一般化されてしまったからだ。つまり、受け手の方にギャグパターンに対する情報がすっかり入っていて、もう見飽きている、使い古された「ベタな展開」。だから、われわれはここで出てくるギャグに「なんじゃ?こりゃ?」と」クールになることはない。それが、結果としてつまらないという印象を生むのだ。言い換えれば、当時の観客にとって、これら逆は新鮮で、驚きで、「なんじゃ?こりゃ?」だったのだ。

典型的なクール映画『2001年宇宙の旅』だってホットになる

また、個人レベルでもホットとクールは変化する。私的な経験で申し訳ないが、S.キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』は僕にとって、その見方がクールからホットに変わってしまった典型的な作品だ。

初めてこの作品を見たとき、とにかく「わけがわからん」という感じになり、作品の意味するところは何なのかを一生懸命探るというようなことをやっていた。ティコモノリスという石版はなんだ?なんで最初に類人猿が出てくるの?骨が突然宇宙船に変わるのは?宇宙の果てに、なぜお城みたいな部屋があるの?宇宙に浮かんでいる胎児は?などなど。この時点では完全に僕のアタマはクールな状態だった。

ところがメディア論を勉強した後に、この映画は僕にとってはホットな映画になっていた。前記した謎が、メディア論、とりわけマクルーハン理論を踏まえると一気に解ってしまったのだ(ちなみに、この作品は、実際、マクルーハン理論を下敷きにしている。いずれ本ブログで『2001年宇宙の旅』は手亭分析する予定)。

ホットとクールは送り手と受け手の間で相対的に決定されるのであり、メディアそれ自体が本質的にホット性、クール性をそなえているとは必ずしもいえないのだ(ただし、あくまでも「必ずしも」のレベルでしかない。ちょっと専門的な話になるが、活字と音楽では直線性(線条性)というレベルでは明らかに活字の方がホットではある)。

ということはラジオというメディアも、その運用法によってホットにもクールにもなりうると言うことになるのだが……話をこのブログのテーマに戻せば、僕の出演した番組の中で、少なくとも僕を含む送り手は一様にクールになっていたということになる。それはなぜか?(続く)