マイケルの音楽界への功績とは?

昨日(26日(日本時間))の急逝の報道後、メディアはスーパースター・マイケルジャクソンのことで持ちきりの状態だ。マイケルが偉大なアーティストであることはもちろんだが、ここでは少々冷静にマイケル・ジャクソンという存在をメディア論的に評価してみよう。ポイントはミュージック界への影響についてだ。

音楽それ自体には、ほとんど何も貢献していない?

マイケルは活動の中で音楽界に対し何の貢献を果たしたのだろう?彼は自ら音楽を作るわけではないし(自作曲も多少はあったが)、その曲のスタイルも常にきわめて保守的だった。だからミュージシャンとしての内実はごく普通と捉えるべきだろう(それは、逝去した直後、集まったファンたちが歌っていた歌が彼の曲の数曲(ビリージーン、スリラーとバッド)に限られていたということからもわかる)。しかし、これだけのスーパースターに上り詰めるにはそれなりの要因がある。それは、マイケルを取り囲む音楽環境、そしてメディア環境がまずあったからと考えることができるだろう。

産業ロックによる音楽ビジネスのシステム化

マイケルは常に音楽システムの中にあった。それは「産業ロック」というカテゴリーに属するものだ。これはポップミュージックを完全なビジネスと位置づけ、大々的にマーケティングとプロモーションを実施することで商品として音楽を市場に展開するものだ。そして、これはしばしば批判の意味を込めて語られることが多い。

マイケルジャクソンは子供時代、白人向けに黒人音楽を提供することでビジネスを成立させたモータウン・レコードに所属し、子供のスターと言うことで地位を獲得する。いうならば少々「イロモノ」扱い。

もっとも、当時は産業ロックと呼ぶほどのシステム化されたビジネスが展開されていたわけではない。これが本格化するのは80年代、アルバム「スリラー」制作からだ。まず制作スタッフ。プロデューサーにはクインシー・ジョーンズが抜擢された(ただし前作「オフ・ザ・ウォール」から)。クインシーはジャズ界の巨匠、57年のデビュー以来輝かしい業績を上げてきた敏腕ミュージシャン=プロデューサーだ。日本人のあいだでも、たとえばテレビ番組「警部アイアンサイド」のテーマソング(日本のテレビ番組”ウイークエンダー”でも使用された)や「愛のコリーダ」ですでにおなじみの存在だった。当然出来上がったアルバムはポップミュージックの中でもきわめて完成度の高い緻密でゴージャスなものだった。

ポップスとロックは見るものになった!

そして、このときスリラーは同時にミュージック・クリップが制作されるのだが、これもとんでもない費用をかけたものだった。制作にあたってはジョン・ランディスを起用。スピルバーグの秘蔵っ子で、「ケンタッキー・フライド・ムービー」「トワイライト・ゾーン」(共作)、そして「ブルース・ブラザース」などを手がけ、すでに巨匠に達していたこの監督に任せて作品は制作された。

そして、このミュージック・クリップこそがマイケル・ジャクソンを、そして産業ロックのシステムを形成する大きな要因となっていく。というのも、この時期音楽ビジネスは大きな変容を果たしていたからだ。原因はビデオデッキ、そしてケーブルテレビの普及による。

この二つのメディアは音楽のスタイルを根本から変えていった。ビデオはレコードやテープで聴くだけのものでなく、ビデオに録画して映像とともに観るというスタイルが生まれたのだ。またケーブルテレビとしても使い回しの聴くコンテンツとしてビデオクリップは重宝。音楽専用のテレビMTVもこの時期にはじめられている。
となると、映像は曲のオマケではなく、それ自体が作品として独立したものでなくてはならない。いや、音楽と一体になった作品として成立しなければならない。音楽は観るものになったのだ。(続く)