評判の悪いディズニー化(Disneyfication)という手法
ディズニーアニメ、ディズニー作品を特徴づける言葉に「ディズニー化」ということばがある。これは A.ブライマンによれば「文化や歴史の無菌化プロセス」「ある対象を表面的なもの、または単純すぎるとさえいえるものに変容させること」と定義されている。かみ砕いて言えば、たとえばディズニー版シンデレラのように、いつか王子様がやってきてハッピーエンドになるというように原作を作り替えて、毒気をことごとく抜いてしまう作業を指している。(原作の「灰かぶり」(「シンデレラ」とは「灰かぶり」=灰を布団に暮らした女という意味)や「サンドリヨン」の場合には、もっとおどろおどろしい話がある(たとえば姉二人が鳩に目つぶしされたり、靴に合うように脚を切り落とされたりなど))。また、キャラクターを極端に単純化したり、ストーリーから性的な描写を削除してしまうといった手法もこの一つ。これらのディズニー化によって、ディズニーの作品は一目で判別がつくようになっている。もちろん、こういった過度の単純化と無菌化はしばしば批判の対象となる。いわく「現実を見ようとしない」「きれいごとの世界」というふうに。しかも、ディズニー自体が大きな力を持っているので、ディズニーによって制作されたおとぎ話は、結果としてオリジナルよりもポピュラーになり、そちらがオリジナルになってしまうことも批判される一つだ(「リトルマーメイド」「美女と野獣」のオリジナルバージョンなんてとっくに忘れ去られているんじゃないんだろうか。前者のオリジナルではリトルマーメイド、つまり人魚姫は最後には泡になって消えてしまうのだが……)
※ちなみにディズニー化はDisneyficationとDisneyizationの二つがある。後者は世界がテーマパーク化していくことを指しており、本ブログで頻繁に取り上げてきたものだ。
※ちなみにディズニー化はDisneyficationとDisneyizationの二つがある。後者は世界がテーマパーク化していくことを指しており、本ブログで頻繁に取り上げてきたものだ。
単なるディズニー化(Disneyfication)ではない、ディズニー版、ピーターパン
ディズニー版「ピーターパン」 (1953)も、他のディズニー作品同様、ディズニー化が施されている。たとえばフック船長を単なる悪者にしたり、性的な部分の描写を外したり(女性陣の葛藤、とりわけウエンディとティンカーベルについての描写は作品の中では結構曖昧だ)。しかし、この作品はそのディズニー化というカスタマイズによって原作とは少々違ったテイストをつくりあげ、それが異なるメッセージへと昇華されている点が他の作品群とは異なっている。つまりディズニー化を単に悪しきこととのみ評価するのではなく、ピーターパンのように見事に別の文学作品として評価できるレベルにまで達すると言う側面もあると考えるならば、これは成功している希有な一例といえるだろう。実は、僕がこのピーターパンを見た回数は尋常ではない。優に百回は超えている。最初は子供の頃に見たのだが、ハッキリいってこの頃はそのメッセージが全くわからなかった。覚えているのは時計ワニの上でダンス?をするフック船長のシーンだけ。ところが二十歳過ぎて、たまたま、この作品に遭遇した時(1982年12月24日。東京ディズニーランドのオープンのプロモーションとして日本テレビで放映されたのだ。ちなみに当時ディズニーの方針で、ディズニーアニメがテレビで放映されることは一切なかった)以来、この映画の奥行きの深さに惚れ込んだ。で、何回となく見ることに。それどころか講義(=社会心理学)のネタにまですることに。
そこで、今回はこのディズニー版ピーターパンについて徹底的に分析をしてみようと思う。理論的な側面がちょこちょこでてきてややハードな内容になるかもしれないけれど、その代わり、いろいろな秘密を明らかにするので、お楽しみに。(続く)
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