ゲストの優位化

リピーターの増加によってゲストたちにとってカジュアル化=日常化した東京ディズニーランド(以下TDL)。この日常化はもう一つの側面でも進行する。それは、いわば「ディズニー・リテラシーの向上」と表現できるものだ。二十五年前、日本人のディズニーに対する認識は非常に低く、そのレベルはミッキーマウス以外はディズニーといってもピンとこないというくらいのものだった(もちろんグーフィとプルートの区別もつかない)。それが東京ディズニーランド開園以来、人々は頻繁にディズニー関連のものにアクセスするようになり、すっかりディズニー通に。部屋の中はディズニーグッズでいっぱいなんてのは、結構あたりまえになった(実際、僕の講義の受講生でディズニーグッズを携帯している学生は他のグッズに比べても圧倒的に多い)。つまりディズニー世界が生活の中に浸透していき、ディズニーがそこにあることが日常になったのである。

こうなると東京ディズニーランドは日常生活の延長の場と位置づけられるようになる。要するに自分の部屋の続き。部屋の中なら誰でも自由に振る舞うことが出来る。だから、ディズニーランドでも勝手気ままに振る舞うのはあたりまえ。部屋とディズニーランドの違いは私的空間か公共空間かという違いがあるが、あまりに日常に満ちている公共空間であるディズニーランドはもはや私的空間にしか思えない。だから、好き勝手に行動する。自分の部屋に食べ物もってこようが、地べたに座り込もうが、化粧をしようが、俺の空間。勝手気ままにやってどこが悪い、ってなことになってしまうのだ。

細分化の果てに

そしてこの勝手気まま空間における公共性の消滅は次のようなプロセスによって達成される。今やディズニーといってもその世界は広い。前述したように以前だったらミッキーマウスとその周辺キャラクターという形で一連のヒエラルキーが構成され、この序列に従って人々はディズニー世界を見ていた。ところが今やキャラクターは乱立。覚えきれないほどのキャラクターがディズニー世界にあふれている。そして、それぞれにまたヒエラルキーが存在する。

こんな細分化されたディズニー世界に対して人々はマクロ的にではなくミクロ的=局所的に対応する。つまり特定のキャラクターにフェティッシュに熱狂するというパターンを取るようになるのである。その典型はスティッチやマリーといった最近のキャラクターへの熱狂だ(マリーは映画「おしゃれキャット」のキャラであり、作品が作られたのは70年と古いが、クローズアップされたのはディズニーシーのオープン時だ)。たとえばスティッチのファンはもっぱらスティッチ関連のグッズをコレクションし、ディズニーランドにやってくる理由もスティッチを見るためである。その時、ディズニーの他のキャラクターはスティッチの存在を盛り上げるディズニーという環境でしかない。つまり、他のキャラなど見ていない。

萌え萌えランドの誕生

で、この細分化はキャラクターにとどまらない。さらにどんどん進んでいて、それはたとえばパレードのダンサー、パレード、ショーにまで及ぶ。ダンサーには取り巻きファンがいて、これ見たさにディズニーランドにやってくるゲストが存在するのだ。もちろん、そのファン=ゲストにとってお気に入りのダンサー以外はディズニーという環境、まあ、そこにあればどうでもいいものと言うことになる。

ようするに、こういった細分化された嗜好を形成したゲストたちはディズニー的世界を雰囲気としては利用しているが、それはあくまで特定のフェティッシュに熱狂するキャラクターなどとの関連で存在するものでしかない。つまりキャラ>ディズニー世界。そしてこのキャラと自分の関係の構築が重要なのであり、その関係を成立させる限りでディズニー世界は成立するわけで、言い換えればその関係さえ損なわなければディズニー世界などどうでもいいのである。

ディズニーはオタクたちによる「萌えランド」という位置づけを与えられている。当然、ミクロ=局所的にしかディズニーを見ないゲストにとってウォルト的世界観なんか知ったことではないのである。(続く)