第四象限、オタク論議で一儲け

オタク語りを四分類して分析をすすめている。今回は第四回。

第四象限でのオタク語りは、高いコミュニケーション能力、狭いジャンル。この場合、狭いジャンルとは、いわゆるオタクイメージを象徴するようなマンガ、アニメ、フィギュアなどを指す。さて、第三象限、つまり低いコミュニケーション能力、狭いジャンルという括りは、オタクのプロトタイプ的なイメージだった。つまりネクラで彼女が無く、社会性のなさをこういった趣味に拘泥することで抑圧するといった。しかし、この第四象限では、このまさにオタッキーな趣味に深く関わることで、この第三象限のキャラクターに社交性が出てくるというような怪しい語りになる。

この立ち位置を徹底的に展開したのがオタキングこと岡田斗司夫だった。岡田に言わせればオタクとはネクラな人間でもなんでもなく、ひとつの分野に鋭くまなざしを差し入れ、これに徹底的にこだわる「粋」で「洒脱」なキャラクターと言うことになる。情報に対して高感度にこれを入手し、しかも、自らの趣味にこだわりつつも、相手の趣味の領域も尊重する社交性を備える。さらに、こういったキャラクターは江戸時代にまで遡る、日本の文化の伝統に深く根ざしたものだというのである。

オタクは新人類?

いうならばオタキングたちのこの語りは、オタク以前、若者に与えられていた名称「新人類」についての議論の焼き直しに他ならなかった。自らをオタキングと名乗り、実践してみせるこの岡田のやり方は、ネガティブにしか語られることの無かったオタクを正当化させる戦略だったのだ。そして、この戦略に一枚乗ったのが資本で、ここに資本はオタクという市場を発見することになるのだ。オタク-非社交性+高感度=新人類の焼き直しという図式は、見事に成功し、これによってオタクについては二つのあたらしい意味が加わっていく。

ひとつは、オタクが「若者」という世代的括りを脱却し、女性を含めて全世代に該当するという捉え方である。つまりマンガやアニメに拘泥する人間は男子若者に限らない。いや、もっと言ってしまえば「限られなくてもよい」というお墨付きを与えたいったほうが正鵠を射ているかもしれない。

もう一つは、オタクは「暗くない」というもの。オタクであることに劣等感を抱く必要はない、そういったオタクの「市民権」を岡田は与えていったのである。ちなみにその啓蒙として岡田が使用したのが自らの「東大非常勤講師」という肩書きだった。しかも「東大オタクゼミ」と、授業では徹底してオタク論を展開していることを吹聴し、日本の学問の頂点である東大もがオタクを認めているのだというイメージを振りまいたのである。

岡田の思ってもいなかった展開

しかし岡田のオタク論は結果としてあらぬ方向へオタク論を導いていく。ひとつは第一象限=広いジャンル+高コミュニケーション能力の出現だ。これは資本が、岡田の議論をジャンル、世代双方に拡大し、オタクをひとつのマーケット(2800億円?)として認知させようとする語りが出現したこと。要は、オタクが金儲けの対象として扱われるようになったことだ。

もうひとつは、こうやってオタクが認知されることで、岡田も想定しなかったオタクが議論上で登場したことだ。それは、「萌え」るオタクである。岡田には新しい世代(オタク第二世代以降)がするとさせる「萌え」が理解できない。というのも、岡田にとってオタクは、特定のジャンルで自ら世界観を作り、これを語る高感度な存在。一方、「萌え」るオタクは物語=ストーリーなどには全くと言っていいほど関心を示さず、もっぱらその世界を形作るパーツ(キャラや萌え要素)にフェティッシュに熱狂する。語りは二の次だ。これは、哲学者・東浩紀の言う「動物的」=欲望に忠実な状態であり、高感度でもなんでもない。こうなると語らないオタクは「粋」な存在でもなく、それは日本の伝統文化を踏襲しているわけでもなくなるので、岡田の議論とは齟齬を来すことになってしまうのだ。

結局、岡田は自ら「オタク・イズ・デッド」=おたくは、もう死んでいる、と宣言し、オタク論から撤退していった。

ただし、実際に「オタクはもう死んでいる」という議論は無理がある。それは第四象限を展開した岡田の図式が合わなくなっただけだからだ。言いかえれば、岡田が展開したオタク論は新人類という旧式のシステムの焼き直しでしかなかったとツッコミを入れられても仕方がないような展開だったと言ってもいいのかもしれない。事実、オタクはますます市民権を得、またオタク論も相変わらず活発な状況に代わりはないからだ。だから、実のところ「オタクはもう死んでいる」のではなく「オタキングのオタク語りはもう死んでいる」ということだったのだ。

総括すると……社会的性格としてのオタク

こうやってオタク論議を見てみると、その流れは第三象限(狭いジャンル+低コミュニケーション)から、岡田の第四象限(狭いジャンル+高コミュニケーション)を経由し、結局それを資本が第一象限(広いジャンル+高コミュニケーション)へ至っていると言うことが出来るだろう。そして、そこでオタクのイメージからは「クラい」というイメージ、「若者の特性」という世代論的な語り「男性」というジェンダー的な語りが消滅し、あらゆるジャンルがオタクにとっての対象ということになることで、巨大なオタク市場がメタ的な「オタク語り」として登場している。つまり、今やオタクは日本国民のほとんどが分有する「社会的性格」として語られているということになるのだろうか。